2006年05月04日

●『狭き門』A・ジッド

新潮文庫、221p

 少女は神へと逃げた。
 久々に小説で泣きそうになった。泣くまでには到らなかったけれど。

 主人公ジェロームと、2歳年上の従姉妹アリサの恋物語。
 しかしハッピーエンドという言葉はこの物語に存在しない。

 生まれ育った家庭環境【注】が要因となり、人を愛して幸せになることを拒んでいるアリサ。心底では幸せを願いながらも一方でそれを禁じ、アリサは神・宗教・得へと傾倒していく。それこそが幸せになるよりも重要なことだと信じて。
 信じるという言葉だけでは不足で、他の選択肢を封印する自己暗示をかけ続けている、としたほうがより近い気がする。
 神や宗教というものが存在せずとも、「愛しあって幸福になるという結末」への障害は低くない確率で生まれ得た(心理学的な根拠があったはず)。しかしながら、幸せからの離別を積極的に加速させた神という概念の大きな負の側面が見て取れた。

 寄る辺なき人を吸引する神の力はえらく強い、ただ神が与える逃げ道は結局元の場所へ戻っているんじゃないかと思う。もっと言えば、逃げ道自体が錯覚によるものなのかもしれない。


【注】家庭環境ってどんなだよ、を軽くまとめると

・母が発作持ち(癲癇?)でしばしば家中大騒ぎを起こす
・妹、弟に比べて叔母にひどく疎まれる
・父には頼られる
・母が不義、場所は父不在時の自宅であり、弟、妹は浮気現場に同席
・この後母が出奔

 主人公は本能的に叔母を警戒、という記述もある。
「祈ることしかできない、神しか頼るものがない」状態にあるのは確か。
 より詳しい本文からの引用・参考箇所は追記で。

 半分眠りながらのせいかまとまりが悪いですね(;´Д`)

9648p/42195p

 わたしは年よりも早く物心づいていた。(中略)ジュリエットとロベールがいたって子供らしくうつったのに反し、アリサを見たときに、とつぜん、わたしたち二人がもう子供ではなくなったということが感じられた。

 叔母(注:アリサの母親)のそばにいると、わたしには言うに言われぬ窮屈さが感じられた。それは、落ちつかない、尊敬とおそれのまじりあったような気持ちだった。それはおそらく、それと知られぬ本能のはたらきから、彼女を警戒したからに違いなかった。
 →さらに、主人公の母と叔母が嫌い合っているという記述がある。

 ときどき、叔母には《発作》が起った。それは突然彼女を襲って、家中大騒動をまきおこしてしまうのだった。(中略)だが、寝室や客間から聞えてくる恐ろしい叫び声を、いくら子供たちの耳に入れまいとしても、それはまったく不可能なことだった。叔父はすっかり度を失っていた。(中略)夕方、まだ叔母が姿を見せぬ食卓に向かった叔父は、いつも心配そうな、老いを見せた顔をしていた。

 発作が大体過ぎてしまうと、叔母は、いつも子供たちを彼女のそばへ呼び寄せた。少なくともロベール(注:アリサの弟)とジュリエット(注:アリサの妹)を。アリサを呼ぶことは絶えてなかった。こうした悲しい日には、アリサは自分の部屋に閉じこもったきりだった。そして、そこへ時折、叔父が出かけていくのだった。というのは、叔父はよく彼女と話をしていたからだった。
 →叔父に近い故かどうかは不明も、実母に疎まれ、父に頼られる子供

 彼女の、すでにそのころからうれいを含んでいるようだった微笑の表情

 そして、おどろいたことには、次のような場面を見たのだった。窓掛けがしめられて、二つの燭台の火が花やかにてらしだしている部屋の中央に、叔母は長椅子の上に身を横たえていた。その足元にはロベールとジュリエットがいた。叔母の後ろには、中尉の軍服をつけた、見たこともない若い男がいた。その場に二人の子供が居あわせたこと、それは今日考えれば言語道断なことのように思われる。
 →叔母の不義、二人に見られずに主人公はアリサの部屋へ   これに続く場面が以下。

 いま、わたしはアリサの部屋の戸口に立っている。わたしはちょっと待った。笑い声と歓声とが下から聞えてくる。おそらくそれが私のノックの音を消したのだろう。わたしにはなんの返事も聞かれなかった。わたしはドアを押した。するとドアは音もなくあいた。部屋の中はすでに薄暗くなっていて、すぐにはアリサを見分けることができなかったほどだった。アリサは、そのベッドの枕もとにひざまずいて、薄れ日のさしこんでくる窓のほうへ背を向けていた。私の近寄るのを見て振り向いたがべつに立ちあがろうとしなかった。彼女はつぶやくようにこういった。

「あら、ジェローム、なぜ帰ってきたの?」

 わたしは、キスしてやろうと思って体をかがめた。彼女の顔には涙があふれていた。

 この瞬間が、私の一生を決定したのだった。わたしは、今もなお苦しく思わずにはこのときのことを思い出せない。もちろんわたしには、はなはだ不完全にしかアリサの悲嘆の原因が飲み込めていなかった。だがわたしには、そうした悲嘆が、この波打っているいじらしい魂にとって、またすすり泣きにふるえているこのかよわい肉体にとって、いかに強すぎるものであるかがひしひし感じられたのだった。
 →この後、叔母が家出する。


 叔母が消えた朝、小さな教会で説教が行われる。牧師は叔母の育ての父であって、「たしかに思うことがあってのことだろう」という説明とともに、次のような文句を唱える場面が始まる。これがこの物語の核となっていると言えよう。

『力を尽して狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者はおおし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見いだす者少なし』

 そして、主題をはっきりわけながら、まず《広き道》のことを語った……。わたしは、ぼんやりして、夢のように、叔母の部屋のことを思い浮かべていた、ねそべって、笑っている叔母が思い浮かんだ。つづいて、これも笑っている、花やかな士官の姿が思い浮かんだ……そして笑うということ、喜ぶということ自体が、すでにしゃくな、不愉快なものに思われ、あたかも罪悪のいとわしい誇大な表現のようにさえ思われてきた……

(中略)わたしは、笑いさざめき浮かれたようすで行列をつくって歩いてゆく多くの着飾った人たちを思い浮かべた。そして、わたしは、その人たちと歩みをそろえる一足ごとに、アリサから遠ざかるようだったので、到底そんな仲間入りはできないし、またしたくもないと思った。――牧師は、ふたたび本文の冒頭を口にした。そしてわたしは、努力してそこからはいらなければならないという狭き門を見た。わたしは、見つづけている夢の中で、その門のことを一種の圧延機のように想像して、自分はそこから骨を折ってはいっていくのだ、それは非常な苦しみではあるが、しかしそこには、何か天の祝福の前味といったようなものが見いだされるのだというふうに感じていた。そして、この門は、さらにアリサの部屋の戸口になっていた。そこへ入るために体を小さくし、また自分のなかに残っているあらゆる利己心というものを捨てるのだ……

 →これが『狭き門』というタイトルの元。