2006年06月01日

●デカルト『方法序説』

デカルトは親切にもはしがきに各章が何について語られているかを簡単に解説してくれている。本来なら自分で要約すべきこの題まとめも今回は彼の恩恵に与ることにしよう。
一章では学問に関する様々な考察と、デカルト自身の青年時代の転機について書かれている。次の二箇所を引用しておきたい。

だが、学校で勉強する教科を尊重しなかったわけではない。わたしは以下のことは知っていた。学校で習う語学はむかしの本を理解するのに必要だし、寓話の楽しさは精神を目覚めさせる。歴史上の記憶すべき出来事は精神を奮い立たせ、思慮をもって読めば判断力を養う助けとなる。すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる。入念な準備のなされたものだ。……

ほかの世紀の人びとと交わるのは、旅をするのと同じようなものだからだ。さまざまな民族の習俗について何がしかの知識を得るのは、われわれの習俗の判断をいっそう健全なものにするためにも良いことだし、またどこの習俗も見たことのない人たちがやりがちなように、自分たちの流儀に反するものはすべてこっけいで理性にそむいたものと考えたりしないためにも、良いことだ。けれども旅にあまり多く時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまう。……

デカルトの学問に対する態度がこれだけでよくわかる。特に前者については身につまされる人もいることだろうと思う。ある程度学習が進み中間期に来ると、学校の勉強を軽視し、他の雑学や知識に惹かれ、そちらをより人生に有益だとか本当に必要な教養であると考えはじめる学生は少なからずいるが、結局のところ学校の勉強すらこなさぬようでは凡そ他の学問を修めるにはいたらないということだろう。いわば最低限といったところだ。昔の自分自身にも大いにあてはまるところがある。
自分の国で異邦人になってしまう、というのはさしあたり次の二点においてであると考えられる。即ち一つは地理的な問題であり、一つは時間的な問題だ。ショウペンハウエルも指摘するように、過去現在に関わらず多くの知識を吸収することが必ずしもよいとは限らない。砕いた解釈をすれば、どのような知識・経験も今自分が立っている「ここ・現在」に何らかの形で帰結できなければあまり意味をなさないということだろう。

二章では彼の探求した主な規則について、その起源とともに平易に解説されている。引用は「論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら」必要十分である四つの規則。

第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。 第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。 そして最後は、全ての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。 (中略) そしてそれまで学問で心理を探求してきたすべての人びとのうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見いだしえたのは数学者だけであったことを考えて、わたしは、これらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった。

こうしていよいよデカルトは後に解析幾何学の基礎を築くにいたる。それにしても、第一章から既に感じられることだが、デカルトという人は他の名著に名を連ねる歴代の哲学者面々とは大分毛色が違うようだ。一章で自ら「ほかの人たちと同じくらい頭の回転が速く、想像力がくっきりと鮮明で、豊かで鮮やかな記憶力をもちたいと、しばしば願ったほどだ」と語っているように、確かに天才肌といった感じではない。語られる言葉も非常に平易であり、私たちのような普通の一般人に極めて近い気がする。デカルトの優れている点はやはり、そういう自覚の故に、着眼点や思考順序、判断の基準といったような、本当に基本的で土台となる部分に最新の注意を払って思索を進めたことにあるのだろう。「きわめてゆっくり歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる」。

▼覚書。
スコラ用語「偶有性」
そのものの本質に属さない性質のこと。対して「形相」はものの本質を構成する精神的原理のこと。

スコラでは天文学、音楽、光学、力学なども全て「数学」と呼ばれる場合があった。これらは研究対象の区別という点から数学に属する”別の学問”とされていたが、デカルトはこれに対しそれらを構成する知性の観点から、数学をモデルにとって、連鎖を見いだし統一をはかった。


三章~六章
三章はデカルトが実際にどのような道徳上の規則を見い出したのかについて。四章と五章ではその形而上学の基礎や神と魂の存在証明など、内容は若干抽象的になる。有名な彼の言葉「われ思う、ゆえにわれあり」もここでその原理たる所以が示される。以下、三章からは少々長いがデカルトの行動理論を示した箇所、四章からは上記の名言に関連した一節を引用。

旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一ヶ所にとどまっていてもいけない。いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方向を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。というのは、このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ。同様に、実生活の行動はしばしば一刻の猶予も許さないのだから、次のことはきわめて確かな真理である。どれがもっとも真なる意見か見分ける能力がわれわれにないときは、もっとも蓋然性の高い意見に従うべきだということ。しかも、われわれがどの意見にいっそう高い蓋然性を認めるべきかわからないときも、どれかに決め、一度決めたあとはその意見を、実践に関わるかぎり、もはや疑わしいものとしてでなく、きわめて真実度の高い確かなものとみなさなければならない。われわれにそれを決めさせた理由がそうであるからだ。……

一度決めた意見を決して疑うことはしない、というのはもちろん思索の方向についてであって、間違いがはっきりと露呈した場合にはもちろん改めるべきだろう。そこを踏まえて「たいした理由もなしに」と述べられている。もっともデカルトはここでは考えていないが、「まっすぐ歩く」ことそれ自体がそもそもわたしたちにとってはある程度難しい。進路がまっすぐであるという保証は何が与えてくれるのだろうか。

ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。(中略)しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する[ワレ惟ウ、故ニワレ在り]」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。……

それ故、自分が他のものの真理性を疑おうと考えていること自体から、まさに自分が存在することが帰結するわけである。ところでここで「全てのものを疑う」としているデカルトの立場と懐疑論者の立場は決定的に異なる。かれら懐疑論者が「疑うためだけに疑い、つめに非決定でいようとする」のに対し、デカルトは全てのものを”いったん”疑うことで、ひとつひとつ反省を加え、既知であった事柄に潜む誤謬を根絶していったのである。

六章はデカルトがこの書を執筆するに至った動機や、先に進むために必要だと考えることについて。特に引用する箇所はないが、章頭で述べられたことに関連して、物語創作に関連付けて少し自論を展開してみたい。

人はみなそれぞれ、程度の差こそあれ独自の哲学を持っている。そしてまたそれが誰に影響されたか、何に依っているかに関わらず、その哲学はその人にとって一番のお気に入りであることは間違いない。わたしたちが人の哲学に触れるのは、それによって自分の哲学をよりよいものにしていこうとするからに他ならない。殆ど全ての場合、哲学の吸収は能動的に行われるのだ。だからこそ哲学を押し付けるようなものは往々にして嫌がられるし、遠ざけられる。物語について考えてみれば、哲学を前面に押し出して主人公なり誰なりがそれを強く主張し完結するものは多く氾濫しているが、それが絶賛を得るのは読み手の哲学が求めていたものにたまたま合致していた場合にすぎない。これらのものは作者自身にとっては奥深く示唆に富み、自身の叡智と鋭い思索を見事にまとめあげた名作ように見えるが、実はそう見えるのはそれがまさに自分のお気に入りの哲学を反映した作品だからなのである。あまりに強くそれを表に出せば出すほど、書き手と読み手のリアクションギャップは広がっていくことだろう。大切なのは語ることではなく、聞いてもらうことである、という基本的なことを失念した物書きは近年驚くほど多いように感じられる。

デカルト曰く、「生き方については、だれもが十分に自分の見識をもっているために、人間の頭数と同じだけの改革者が現れることになりかねない」。その通りだが、ひとこと「生き方については」は余計であると個人的見解を述べたい。すべての考えうることについて恐らくそうであろう。思考や哲学は人に伝える際も自ら展開するにとどめるべきで、人に押し付ける性格のものでは全くないわけだ。”教えてあげようは二流、それとなく悟らせてこそ一流”。誰の言葉だっただろうか、正鵠を射た表現だ。

▼覚書。
スコラ用語「想像空間」
有限な現実世界の果ての向こうに、想像力だけがとらえる無限空間があるという。その世界をスコラ哲学では想像空間と呼ぶ。

スコラ用語「通常の協力」
神が宇宙を、奇跡などの超自然的な働きによってでなく、神が立てた自然法則によって通常どおりに維持する働き。

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