●プルタルコス『似て非なる友について』
似て非なる友について
絶えず我々を賞賛し追従するへつらい屋たち。低俗なものは非難するにも当たらないが、それが狡猾さを増せば増すほど深刻な問題となる。「良き友」のあらゆるやり方をそっくりに真似て相手の機嫌を取ろうとする彼らを、真の友とどのように区別すればよいか。プルタルコスが考えうる彼等のあらゆる手について、その対処法を教えている。
むしろ、友というものは貨幣の場合と同じで、いざ必要となった時贋物だと判明するのでは手遅れで、必要になる前に、本物か贋物かためさるべきでしょう。
しらみは臨終の人の体を自然と去っていく。彼ら”追従者たち”もまた同じで、養分を吸い尽くしたら離れていってしまう。色々な意味で本当に友が必要なとき、今まで良き友と勘違いしていた彼らはもう手の届くところにはいないし、助けてもくれないというわけだ。
不運に見舞われた人に、ずけずけ言ったり厳しい叱責を与えたりするのは、病んで炎症を起こしている目に視力増強剤をあてがうようなもので、何らの治療にもならず苦痛を和らげもせず、痛みにいらいらを添えるだけ、苦しむ人の苦しみをいやが上にも激しくするだけに終わります。(中略)こういう次第ですから、不運に沈んでいる人のおかれている事情そのものに、率直な評言や教訓を受け入れる余地がなく、必要なのはいたわりと援助なのです。幼児が転んだ時、乳母は駆けつけて叱りはしますが、まず抱きかかえて汚れを落としてやって、着物をきちんとしてやって、それから叱りつけ罰を与えるでしょう。……
こちらは第二十八より引用。「悲しみに沈む者には友のやさしい言葉を、愚かしさ目に余る者には友の忠告を」これこそが立派な友人のあり方であって、いつなんどきでも媚びへつらう追従者とはっきり区別できるところであるとされている。
プルタルコスは真の友人と追従者の僅かだが決定的な違いを逐一見逃していない。彼の言葉は、追従と欺瞞に満ちた、荒んだ友人関係が平然と氾濫する現代に生きる我々に、その類稀な観察眼を分け与えてくれる。友人に関わる悩みや不安があるときは、自己啓発や人づきあいの新書が山のように詰まれたコーナーに脚を運ぶくらいなら、これ一冊を読んでおけばかなりすっきりするのではないだろうか。
▼覚書。
甲烏賊は周囲の色に合わせて変色し、それによって敵から身を守ったり、餌になる魚が気づかずにいるところを襲ったりするということが、アリストテレス『動物誌』に書かれている。同じこの書物に書かれている興味深いこととして、カメレオンの語源がギリシア語カマイレオン「地上のライオン」であったということ。ギリシアにカメレオンは生息していないにも関わらず、当時既にカメレオンが色を変えることは有名であったらしい。
ミトリダテスについてこちらでも触れられていた。特に引用が多い、毒物学で有名なのはミトリダテス六世のこと。
プルタルコスは行儀の悪い辛辣な時事風刺を身上とするアリストパネスよりも、おとなしめのメナンドロスを好んでいた。この風潮は随分長い間続いたらしいが、今日の文学史の常識ではアリストパネスの方が断然高く評価されているようだ。
健康のしるべ
日常のほんの少しの油断や節度のなさが、取り返しのつかない病気へ進行するのは思っている以上にあっけない。生活においてはまず何よりも健康であることを心がけなければならないが、そのためにはどのようにしたらよいか。我々の健康を支える諸要因の中でも恐らくもっとも大切であろう”食”について二人の哲学者が対話している(ほぼ独唱だが)。
我々の体の場合も、出される料理に添えるソースもいろいろあるが、いちばんおいしいのは何かというと、こっちの体が健康で、清浄無垢の時に出されるソースさ。こういうソースのどれ一つをとらえても、それ自身だけで十分に甘く高価なものさ。だが、本当においしくなるのは、そのおいしさを楽しむことができる人間にとってと、それから自然本来のあり方にそくして楽しむことができる人間の場合とだ。気むずかし屋とか、遊びすぎての頭痛もちとか、その他体の調子が良くない人間には、どんなものでも持ち味のよさや旬の生きのよさなどは失われてしまうものさ。……。
真っ先に吟味すべきは摂取するものよりもまず自分である、とプルタルコスは言う。また何を食べるにしろ、自分の体の調子をよく見極め、決して無理をせず、その時々で食べるものや量、食べ方を変えていくのが賢いやり方であり、例えば定期的に絶食するなどというのは愚かしいことであるという。定期的にということは即ち、そのときの自分の体のことなど一切考えずに強制的にということであって、体が食を求めていても勝手に制限を課してしまうということだ。そんなことをするくらいならば、普段から絶えずそれなみに食を節する稽古を体にさせることのほうがよっぽど重要というわけである。
健康というものは、何もせずにのらくらしていれば手に入るというものではないからね。いや、無為なんていうのは、病気がつれてくる最悪の禍いさ。目を傷めるといけないからというので目をつぶって何も見ない、声がつぶれてはいけないからと一言もしゃべらない、それとどこも違やしないよ、無為安泰によって健康を維持しようとするなんていうのは。……。
健康は精神が支えるものでもある。無為に安住すれば仮に肉体に負荷がかからなくとも、精神が腐敗していくのは自明だ。精神が病めば当然肉体にも支障を来す。そうして慢性的に健康を損えば、行き着くところは病気しかないし、回復も一層困難になるだろう。昨今増加傾向にあるというひきこもりも同じ現象を引き起こしてはいないか。
最後にひとつ、本文中で引用されていたイソップの寓話の流れを紹介しておきたい。
ろばと馬が荷を負っている。ろばが荷物の重さに疲弊して、馬に自分の荷を少し持ってくれないかと頼むが、馬はそれをきっぱりと断る。やがてろばがついに疲労のために死ぬと、馬はその皮を運ばされることになる。馬は力なく嘆く。「ああ、ほんの少しの荷物を引き受けなかったばっかりに、全部の荷物にそのうえ皮まで背負わされることになるなんて」
健康も事情は全く変らない。ほんの少しの日常生活の綻びが、後々病気という名をもって何倍にも膨れ上がって圧し掛かってくるのは不運でもなんでもなく、己が行為の必然なのである。
▼覚書。
古代には黙読というものはなく、「読む」といえばそれは音読のことをさした。
パンクラティオン
レスリングとボクシングをあわせたような、敵を倒すためなら何でもありの競技。前七世紀以降はオリュンピアの競技種目にもなっていた。
ハルピュイアイ
神話に登場する翼の生えた女怪。
怒らないことについて
怒りは人間の持ち合わせる他のどの感情よりも劣悪で忌み嫌われるものである。怒ることで得られるものは何一つないが、失うものはあまりに多い。怒るということは、できればしないほうがよいという程度のことではなく、絶対に避けなければならない動作のひとつなのである。それではもし私たちの心が理性で制御しきれないほどの怒りを蓄えてしまったとき、それを外に発散させずにかき消してしまうにはどうすればよいか。様々な具体例を要所に挟みつつ、前章「健康のしるべ」と同じように二人の哲学者が対話している。
しかし怒りの場合は別で、怒りの状態にある人が怒りにまかせて言ったりやったりすればするほど、ますます怒りが燃え上がる。だからいちばんいいのは泰然自若としていること、それが無理なら静かなところへ逃れてそこで休むことだ。てんかんの発作が起こりそうだと自覚した人が、倒れないうちに、ことに他人に倒れかからないようにそういうところに駆けこむようにだね。怒っている時、我々はとくに友人たちにもっとも倒れかかりやすいのだ。愛や憎しみ、あるいは恐れの場合、我々は万人を愛するわけではないしすべての人間を憎むわけでもないし、誰も彼もが恐ろしいわけでもない。ところが怒りに触れられぬ、怒りの攻撃を受けぬものはない。敵に対してばかりでなく友人に対しても我々は怒るし、子供にも親にも、それどころか恐れ多くも神々にも動物にも、さらには心のない器具にまで腹を立てる。……。
霧を透かして見た人の姿が大きく見えるように、怒りというヴェールを通してみるとありとあらゆることがたいへん大きく感じられる。後で思い返せばなんと些細なことに自分は怒っていたのか、と後悔することが多いのもこのためだ。怒りという感情は喜怒哀楽のように感情の一つとして分類されるよりは、全ての感情の最低にあるものとするのが望ましい。つまり、欲望であれば相手をなんとかして追いつめよう、打ち負かそう、罰してやろう、といったような低俗な欲望であり、喜びであれば罰せられて不名誉や怪我を蒙った相手を見て感じる極めて醜悪な喜びである。
こうしてぼくは自分の経験から、あの判断に到達した、つまり、この落ち着いて穏やかで、人間を人間として愛する態度も、ただそういう態度の人と接するというのでなく、自分がそういう態度の持ち主になった時こそ、気持のいい、なつかしい、涙にくもることのないものになるのだ、とね。
これはこの章の最後に語り手が言っている言葉である。なるほど、うまくまとまっている。外から入ってくるものが何であれ、自分という濾過器を通さずに入ってくるものなど何一つないのだから、すべてこころよく物事を進めるためには、まず最低限自分が怒りという感情から解放されている必要があるということだ。他人のこと、外のことなどその後でよろしい。自分が怒りから解放されてもいないのに他人の怒りにやり返しては、ただの怒りの応酬であり、自分の精神と彼との関係を悪化する以外、何も期待されるところはないのである。
▼覚書。
外界に対する冷静な対処のための魔法の言葉、プラトンより「はたして私もこんなふうなのだろうか」。
この章は特に、セネカ『怒りについて』との関連が深いようだ。また、注釈では同プルタルコス『饒舌について』もよく引き合いに出される。
爽快な気分について
より内容に近く言えば、楽しい人生を送るために。いつも「爽快な気分」でいて、いつ何時でもその瞬間を楽しく生きているためにはどうすればよいか。悲惨なほど運に見放されて、それでもなお心に一点の曇りもなく、清々しい生活を満喫する方法はあるのだろうか。プルタルコスが爽快に答えてくれる。
他人の作品としての詩や絵画や彫刻は、細かく部分部分を穴があくほど、目を凝らし思いをこめて見なければいけないと思っているくせに、自分自身の生活の中にもけっこう多くの楽しい風景があるのには観察の目が向かず、いつも外ばかり眺めては、他人の名声や幸運に目をみはる。これでは浮気男が他人の細君にばかり目をやって、おのれの妻をないがしろにするのと同じだ。
これを踏まえれば「失ってみてはじめて大切だったって気づいたんだ」などというのは名セリフでもなんでもなく、まさに愚鈍の象徴のようなものだ。持っているうちはその大切さなど一切考慮せず、軽視し、無いも同然に扱っていて、いざなく無くなってみるとこれは困ったことになった、なんという不幸だ、などと嘆くのは、普段から自分自身に観察が行き届いていない証拠である。自分に観察が行き届けば、人生を憂うことも少なくなる。何故自分は金持ちではないのだろうか、と嘆く人間は金持ちになれば何故自分は頭がよくないのだろうかと嘆く。どちらも手に入れれば何故自分はルックスがよくないのだろうかと嘆く。そして運動神経を嘆き、仕舞には自分が神でないことを嘆きだすかもしれない。要するにいわゆる「上を見ればキリがない」という奴である。そんなことを嘆いても自分の何かが少しでも高められるわけではないのだから、せめて自分をよく観察し、特に自分の美点、優れた点を見い出していくことが大切だ。劣った点については努力の範疇でなんとかなるものについては正面切って向き合い、どうにもならないものについてはきっぱりとこれが自分と割り切るより他にないだろう。いつかそこに執着を感じなくなれば、実に幸福だといえる。これに関連して最後にもう一節を引用。
「いったい悲しみってやつは人生の親戚なのかね。柔らかいおべべにくるまっている人の家にも済んでいるし、名声輝く人の隣にもちゃんと坐っている。貧乏人には死ぬまでぴったり寄り添ってくれらあ。」(中略)悲しみや悩みをもたらすのは経験不足、不合理な考え方、そして、現状に正しく処する能力もなく知識もないことだ。
▼覚書。
継母はギリシアでも「きつい」「不親切」なものだった。「母の日」というのは運のいい日、「継母の日」というのは運の悪い日のことだったし、「船の継母」というと、うっかり近寄ると危険な岸のことだった。
モンテーニュ『エセー』はプルタルコスの『倫理論集』にたいへん強く影響を受けているとか。証拠としてモンテーニュは実に五百箇所以上にわたり彼を引用し賞賛しているという。