●ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』
岩波文庫・赤/279p
午前中ずっと空気は不気味に静まりかえっていた。本を読みながら坐っていると、私は静けさをじかに感ずるような気がした。窓の方を見ても、広い灰色の空のほかにはなにも見えなかった。一切がただ冷たい、憂鬱な、とりとめもない広がりだけであった。後になって、午後の散歩にでかけようと身じたくをしかけたとき、なにか白いものが私の視線をかすめて落ちてきた。それからものの二、三分もたつと、一切は黙々と降りしきる雪の帳におおわれてしまった。
二回、三回、いや機会さえあれば何度読み直してもよいと思った作品。シュテイフターの水晶以来の「当たり」といったところ。ただし自叙伝の特徴として仕方のないことだが――それにしてもやや過剰に――ライクロフト、つまりギッシングの祖国イギリスを巡るやや退屈とも感じられる議論、思索の跡があちこちに散らばっているため、読み直すにしても次からは頁を選ぶことになるかもしれない。何度でも読みたい箇所と、一度読めば十分な箇所がある。
さて、この『ヘンリ・ライクロフトの私記』はタイトル通り架空の人物ライクロフトの私記の形を取った小説。しかし解説を待たずに、ここで語られている人物は同時にギッシング自身であることに気づく。ただ、架空の人物を借りた自叙伝と異なるところは、この人物はギッシングに違いないが、この人物が置かれている境遇――自然に恵まれた南部の片田舎で、十分生きていくに足る終身年金を毎月受け取りながら、悠々自適たる生活を送ることができる状況――は全くギッシング本人とは異なっている。ギッシングが願った晩年の暮らしを手にした架空のギッシングが、まさにライクロフトなのであった。
さて、過去はどうあれ、彼はいまや働くこともなく、気の赴くままに読書に耽ったり、家の外を闊歩して四季を満喫している。悠々自適ここにきわまれり、といった具合である。ところで私はといえば、今でさえ、レポートの合間を縫ってこの記録をとっている。仕上がれば床に付く。朝起きればまたふらふらと学校へ行き、ありがたいお話を聞き、大量のレポートを抱えて家に帰ってくることだろう。食生活は乱れに乱れ、生活習慣病の影も足元にちらついている。改善の必要を感じていても、口癖のように「そんな暇はない」――ダメ現代人のステレオタイプのような生活を営々とこなしているわけだ。
ライクロフトが見たら間違いなく言うだろう。とても正気の沙汰とは思えない、と。
11293p/42195p