●モーム『月と六ペンス』
岩波文庫・赤/404p
「絵を描かなくてはならんと言ってるのが分からんのかね。自分でもどうしようもないのだ。いいかね、人が水に落ちた場合には、泳ぎ方など問題にならんだろうが。水から這い上がらなけりゃ溺れ死ぬのだ」
絵を描かねばならない。
語り手である”僕”は、冷たくそう言い放つ主人公ストリックランドを「悪魔に取り憑かれているよう」だと思った。悪魔かどうかはともかく、ストリックランドが何かに取り憑かれているようなのは確かである。彼は彼なりに「正常」であったが、傍目にはまったく「常人」ではなかった。描かねばならない。彼はそれしか語らない。描かねばならないのだ。そのためには良心の呵責など鼻で笑ってみせるほどである。
いや、凄まじい人物であった。
ところで、本文中には題名である「月と六ペンス」の「月」も「六ペンス」も出てくることはない。月とは夢や理想を、六ペンスとは現実を表しているのだ。
ストリックランドは見事な「月」の人であった。理想を追うのに犠牲は厭わなかった。自分を犠牲にして、他人まで平気で犠牲に出来る徹底したエゴイズムを持っていた。
月を見続けて、足元の六ペンスに決して視線を落とさないこと。
現実に生きる常人に為せる業ではない。
12110p/42195p