2006年10月07日

●パース『連続性の哲学』

岩波文庫・青/324p

何も書いていない黒板を、一種の原初の曖昧な潜在性、あるいはその限定が未熟な初期状態にあるものの図標であると考えてみることにしよう。これは単なる比喩以上のことである。というのも、結局のところすべての連続性は一般性であるからである。この黒板は二次元の連続体であるが、それが表現するのは不確定な無限次元の連続体である。この黒板は無数の可能な点からなる連続体であるが、それが表現するのは、あらゆる可能な次元の質からなる連続体、あるいは、可能な次元の質からなる連続体の可能な次元の連続体、等々である。この黒板には一個の点も存在しない。この連続体にはいかなる次元も存在しない。この黒板にわたしがチョークで線を描く。この突然の行為によって非連続が生まれるが、原初の曖昧さが確定性へ向けた第一歩を印すことができるのは、この行為によってのみである。この線には一種の連続性の要素がある。その連続性はどこから来たのだろうか。線上の点を連続的なものにするのは、黒板の当初からの連続性である。実際にそこに描かれたのは楕円の線である。なぜなら、この白いチョークの印は線ではなく、ユークリッド的意味で平面図形――表面――であり、存在する唯一の線は、黒い表面と白い表面とを分かつ境界だけであるからである。それゆえ、黒板に非連続性が生じたのは、ただ白い表面と黒い表面とが作用し合い、二つの表面が分離されることによってである。

六章にわたって展開される連続性についての独創的な理論から一部を抜粋した。連続と非連続についての思考が、ここでは明確に数学の図標化されている。
哲学論文としては一般向けの講演用に書かれたものであり、文体も平易で読みやすい。全体を貫く連続性のというテーマをめぐる様々な議論も、厳密でしっかりと整合性が保たれていて、そのテーマの難解さにも関わらず読んでいて首を傾げることは少ない。しかし何よりも魅力的なのは、随所に現れる個々の思考のアイデアとその語り方である。
例えば六章の後半にリスティンク数(現代ではベッティ数)についての議論がある。リスティンク数の議論に直接関わることではないが、そこで補足的に展開されていた、ゼロをAマイナスA、即ち減法という逆算の過程の結果と見なし、その本質が二元的な数であると見なすという議論は非常に印象的である。他の箇所についても例を挙げればキリがない。下に全体を通して最も気に入った箇所を引用して満足することにしよう。

マゼンタ色が自分自身を感じながら、それ以外のいかなる感じももっていない場合を想像してみよう。さて、それが固有のマゼンタ性にまどろんでいるさなかに、突然黄緑色に変容したとしよう。この変容の瞬間における経験こそ、第二性の経験である。

マゼンタ色が、自身のマゼンタ性にまどろんでいる。そのさなかに突然黄緑色に変容したときの、彼の経験がいかなるものか。これは実に興味深い考察である。目を閉じて彼の変容の経験に思いを馳せてみよう。それがまさに第二性、即ち「関係」の経験なのである。

こういうところが文学にはあまり見られない、哲学に特有のセンスなのだなと常々思う。

17035p/42195p

コメントする

(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)