●教養・エンターテイメント
アニメを「教養」と呼ぶ人は少なからずいる。しかしそれを認めても、同時にアニメはやはり「エンターテイメント」としての本質を持っている。アニメは、教養でもあり、エンターテイメントでもある。
それならば、哲学もエンターテイメントだ。
私が感じる限りで、秀逸なアニメを見ているときの”楽しさ”と、秀逸な哲学書を読んでいるときの”楽しさ”は、質的に同じである。些細な違いなどいくらでもあげられようが、本質的にはそこまで別種の趣ではない。
だから例えば、GAは『論理哲学論考』(ヴィトゲンシュタイン)よりは面白かったけど、『時間と自由』(ベルクソン)には劣るかなぁ、などと凡そ彼等が聞いたら嘆くであろうようなことも、違和感なく言えたりする。或いは単純な二者択一なら、”楽しさ”が天秤にかけられる。ローゼンメイデンが始まる時間に手にしていた『パンセ』(パスカル)は確かに閉じられることになったのだった。
そしてこのような選択が可能であることが、哲学とアニメの”楽しさ”の同質を示す証拠である。不等号関係で結べる両項は、同単位でなければならない。
「何を馬鹿げたことを。哲学は教養に決まっている。そんなのは、アニメを教養と呼ぶのとは訳が違うんだ」
当然考えられる批判である。まして、私のように片手間どころか通学時間の暇つぶしに哲学を”利用して”いるような不届きものではなく、本気で哲学を究めんとしている方々からすれば、お怒りもごもっともだ。しかし、ちょっと待っていただきたい。
あるものを教養と呼ぶか、エンターテイメントと呼ぶかということには、実は決定的な違いはないのではないだろうか。実際のところ、あることが「役に立つ」、「訳に立たない」といった議論になるとすぐにそのような直線的な解決を嫌って「色々な見方があるから一概には言えない」とホーリスティックな解決に逃げることの多い現代では、ある情報を愉しんで受容しているとき、それを教養と呼ぶかエンターテイメントと呼ぶかは、ほとんど個人に任せられているように思える。要は大した差がないのだ。教養かエンターテイメントかはほぼ個人の主張に過ぎない。
それならどちらでもいいじゃないか。教養と呼びうるものはエンターテイメントと呼びうるし、逆も然り。それなら、これこれは教養だ、これこれはエンターテイメントだと主張することに意味はない。
その通りかもしれない。しかしそれなら逆に、意味がないのだから主張することは無害である。教養ではない、と言わない限り、こう言って差し支えない。
哲学はエンターテイメントだ。