2006年06月01日

●プルタルコス『似て非なる友について』

似て非なる友について
絶えず我々を賞賛し追従するへつらい屋たち。低俗なものは非難するにも当たらないが、それが狡猾さを増せば増すほど深刻な問題となる。「良き友」のあらゆるやり方をそっくりに真似て相手の機嫌を取ろうとする彼らを、真の友とどのように区別すればよいか。プルタルコスが考えうる彼等のあらゆる手について、その対処法を教えている。

むしろ、友というものは貨幣の場合と同じで、いざ必要となった時贋物だと判明するのでは手遅れで、必要になる前に、本物か贋物かためさるべきでしょう。

しらみは臨終の人の体を自然と去っていく。彼ら”追従者たち”もまた同じで、養分を吸い尽くしたら離れていってしまう。色々な意味で本当に友が必要なとき、今まで良き友と勘違いしていた彼らはもう手の届くところにはいないし、助けてもくれないというわけだ。

不運に見舞われた人に、ずけずけ言ったり厳しい叱責を与えたりするのは、病んで炎症を起こしている目に視力増強剤をあてがうようなもので、何らの治療にもならず苦痛を和らげもせず、痛みにいらいらを添えるだけ、苦しむ人の苦しみをいやが上にも激しくするだけに終わります。(中略)こういう次第ですから、不運に沈んでいる人のおかれている事情そのものに、率直な評言や教訓を受け入れる余地がなく、必要なのはいたわりと援助なのです。幼児が転んだ時、乳母は駆けつけて叱りはしますが、まず抱きかかえて汚れを落としてやって、着物をきちんとしてやって、それから叱りつけ罰を与えるでしょう。……

こちらは第二十八より引用。「悲しみに沈む者には友のやさしい言葉を、愚かしさ目に余る者には友の忠告を」これこそが立派な友人のあり方であって、いつなんどきでも媚びへつらう追従者とはっきり区別できるところであるとされている。

プルタルコスは真の友人と追従者の僅かだが決定的な違いを逐一見逃していない。彼の言葉は、追従と欺瞞に満ちた、荒んだ友人関係が平然と氾濫する現代に生きる我々に、その類稀な観察眼を分け与えてくれる。友人に関わる悩みや不安があるときは、自己啓発や人づきあいの新書が山のように詰まれたコーナーに脚を運ぶくらいなら、これ一冊を読んでおけばかなりすっきりするのではないだろうか。

▼覚書。
甲烏賊は周囲の色に合わせて変色し、それによって敵から身を守ったり、餌になる魚が気づかずにいるところを襲ったりするということが、アリストテレス『動物誌』に書かれている。同じこの書物に書かれている興味深いこととして、カメレオンの語源がギリシア語カマイレオン「地上のライオン」であったということ。ギリシアにカメレオンは生息していないにも関わらず、当時既にカメレオンが色を変えることは有名であったらしい。

ミトリダテスについてこちらでも触れられていた。特に引用が多い、毒物学で有名なのはミトリダテス六世のこと。

プルタルコスは行儀の悪い辛辣な時事風刺を身上とするアリストパネスよりも、おとなしめのメナンドロスを好んでいた。この風潮は随分長い間続いたらしいが、今日の文学史の常識ではアリストパネスの方が断然高く評価されているようだ。


健康のしるべ
日常のほんの少しの油断や節度のなさが、取り返しのつかない病気へ進行するのは思っている以上にあっけない。生活においてはまず何よりも健康であることを心がけなければならないが、そのためにはどのようにしたらよいか。我々の健康を支える諸要因の中でも恐らくもっとも大切であろう”食”について二人の哲学者が対話している(ほぼ独唱だが)。

我々の体の場合も、出される料理に添えるソースもいろいろあるが、いちばんおいしいのは何かというと、こっちの体が健康で、清浄無垢の時に出されるソースさ。こういうソースのどれ一つをとらえても、それ自身だけで十分に甘く高価なものさ。だが、本当においしくなるのは、そのおいしさを楽しむことができる人間にとってと、それから自然本来のあり方にそくして楽しむことができる人間の場合とだ。気むずかし屋とか、遊びすぎての頭痛もちとか、その他体の調子が良くない人間には、どんなものでも持ち味のよさや旬の生きのよさなどは失われてしまうものさ。……。

真っ先に吟味すべきは摂取するものよりもまず自分である、とプルタルコスは言う。また何を食べるにしろ、自分の体の調子をよく見極め、決して無理をせず、その時々で食べるものや量、食べ方を変えていくのが賢いやり方であり、例えば定期的に絶食するなどというのは愚かしいことであるという。定期的にということは即ち、そのときの自分の体のことなど一切考えずに強制的にということであって、体が食を求めていても勝手に制限を課してしまうということだ。そんなことをするくらいならば、普段から絶えずそれなみに食を節する稽古を体にさせることのほうがよっぽど重要というわけである。

健康というものは、何もせずにのらくらしていれば手に入るというものではないからね。いや、無為なんていうのは、病気がつれてくる最悪の禍いさ。目を傷めるといけないからというので目をつぶって何も見ない、声がつぶれてはいけないからと一言もしゃべらない、それとどこも違やしないよ、無為安泰によって健康を維持しようとするなんていうのは。……。

健康は精神が支えるものでもある。無為に安住すれば仮に肉体に負荷がかからなくとも、精神が腐敗していくのは自明だ。精神が病めば当然肉体にも支障を来す。そうして慢性的に健康を損えば、行き着くところは病気しかないし、回復も一層困難になるだろう。昨今増加傾向にあるというひきこもりも同じ現象を引き起こしてはいないか。

最後にひとつ、本文中で引用されていたイソップの寓話の流れを紹介しておきたい。
ろばと馬が荷を負っている。ろばが荷物の重さに疲弊して、馬に自分の荷を少し持ってくれないかと頼むが、馬はそれをきっぱりと断る。やがてろばがついに疲労のために死ぬと、馬はその皮を運ばされることになる。馬は力なく嘆く。「ああ、ほんの少しの荷物を引き受けなかったばっかりに、全部の荷物にそのうえ皮まで背負わされることになるなんて」

健康も事情は全く変らない。ほんの少しの日常生活の綻びが、後々病気という名をもって何倍にも膨れ上がって圧し掛かってくるのは不運でもなんでもなく、己が行為の必然なのである。

▼覚書。
古代には黙読というものはなく、「読む」といえばそれは音読のことをさした。

パンクラティオン
レスリングとボクシングをあわせたような、敵を倒すためなら何でもありの競技。前七世紀以降はオリュンピアの競技種目にもなっていた。

ハルピュイアイ
神話に登場する翼の生えた女怪。


怒らないことについて
怒りは人間の持ち合わせる他のどの感情よりも劣悪で忌み嫌われるものである。怒ることで得られるものは何一つないが、失うものはあまりに多い。怒るということは、できればしないほうがよいという程度のことではなく、絶対に避けなければならない動作のひとつなのである。それではもし私たちの心が理性で制御しきれないほどの怒りを蓄えてしまったとき、それを外に発散させずにかき消してしまうにはどうすればよいか。様々な具体例を要所に挟みつつ、前章「健康のしるべ」と同じように二人の哲学者が対話している。

しかし怒りの場合は別で、怒りの状態にある人が怒りにまかせて言ったりやったりすればするほど、ますます怒りが燃え上がる。だからいちばんいいのは泰然自若としていること、それが無理なら静かなところへ逃れてそこで休むことだ。てんかんの発作が起こりそうだと自覚した人が、倒れないうちに、ことに他人に倒れかからないようにそういうところに駆けこむようにだね。怒っている時、我々はとくに友人たちにもっとも倒れかかりやすいのだ。愛や憎しみ、あるいは恐れの場合、我々は万人を愛するわけではないしすべての人間を憎むわけでもないし、誰も彼もが恐ろしいわけでもない。ところが怒りに触れられぬ、怒りの攻撃を受けぬものはない。敵に対してばかりでなく友人に対しても我々は怒るし、子供にも親にも、それどころか恐れ多くも神々にも動物にも、さらには心のない器具にまで腹を立てる。……。

霧を透かして見た人の姿が大きく見えるように、怒りというヴェールを通してみるとありとあらゆることがたいへん大きく感じられる。後で思い返せばなんと些細なことに自分は怒っていたのか、と後悔することが多いのもこのためだ。怒りという感情は喜怒哀楽のように感情の一つとして分類されるよりは、全ての感情の最低にあるものとするのが望ましい。つまり、欲望であれば相手をなんとかして追いつめよう、打ち負かそう、罰してやろう、といったような低俗な欲望であり、喜びであれば罰せられて不名誉や怪我を蒙った相手を見て感じる極めて醜悪な喜びである。

こうしてぼくは自分の経験から、あの判断に到達した、つまり、この落ち着いて穏やかで、人間を人間として愛する態度も、ただそういう態度の人と接するというのでなく、自分がそういう態度の持ち主になった時こそ、気持のいい、なつかしい、涙にくもることのないものになるのだ、とね。

これはこの章の最後に語り手が言っている言葉である。なるほど、うまくまとまっている。外から入ってくるものが何であれ、自分という濾過器を通さずに入ってくるものなど何一つないのだから、すべてこころよく物事を進めるためには、まず最低限自分が怒りという感情から解放されている必要があるということだ。他人のこと、外のことなどその後でよろしい。自分が怒りから解放されてもいないのに他人の怒りにやり返しては、ただの怒りの応酬であり、自分の精神と彼との関係を悪化する以外、何も期待されるところはないのである。

▼覚書。
外界に対する冷静な対処のための魔法の言葉、プラトンより「はたして私もこんなふうなのだろうか」。

この章は特に、セネカ『怒りについて』との関連が深いようだ。また、注釈では同プルタルコス『饒舌について』もよく引き合いに出される。


爽快な気分について
より内容に近く言えば、楽しい人生を送るために。いつも「爽快な気分」でいて、いつ何時でもその瞬間を楽しく生きているためにはどうすればよいか。悲惨なほど運に見放されて、それでもなお心に一点の曇りもなく、清々しい生活を満喫する方法はあるのだろうか。プルタルコスが爽快に答えてくれる。

他人の作品としての詩や絵画や彫刻は、細かく部分部分を穴があくほど、目を凝らし思いをこめて見なければいけないと思っているくせに、自分自身の生活の中にもけっこう多くの楽しい風景があるのには観察の目が向かず、いつも外ばかり眺めては、他人の名声や幸運に目をみはる。これでは浮気男が他人の細君にばかり目をやって、おのれの妻をないがしろにするのと同じだ。

これを踏まえれば「失ってみてはじめて大切だったって気づいたんだ」などというのは名セリフでもなんでもなく、まさに愚鈍の象徴のようなものだ。持っているうちはその大切さなど一切考慮せず、軽視し、無いも同然に扱っていて、いざなく無くなってみるとこれは困ったことになった、なんという不幸だ、などと嘆くのは、普段から自分自身に観察が行き届いていない証拠である。自分に観察が行き届けば、人生を憂うことも少なくなる。何故自分は金持ちではないのだろうか、と嘆く人間は金持ちになれば何故自分は頭がよくないのだろうかと嘆く。どちらも手に入れれば何故自分はルックスがよくないのだろうかと嘆く。そして運動神経を嘆き、仕舞には自分が神でないことを嘆きだすかもしれない。要するにいわゆる「上を見ればキリがない」という奴である。そんなことを嘆いても自分の何かが少しでも高められるわけではないのだから、せめて自分をよく観察し、特に自分の美点、優れた点を見い出していくことが大切だ。劣った点については努力の範疇でなんとかなるものについては正面切って向き合い、どうにもならないものについてはきっぱりとこれが自分と割り切るより他にないだろう。いつかそこに執着を感じなくなれば、実に幸福だといえる。これに関連して最後にもう一節を引用。

「いったい悲しみってやつは人生の親戚なのかね。柔らかいおべべにくるまっている人の家にも済んでいるし、名声輝く人の隣にもちゃんと坐っている。貧乏人には死ぬまでぴったり寄り添ってくれらあ。」(中略)悲しみや悩みをもたらすのは経験不足、不合理な考え方、そして、現状に正しく処する能力もなく知識もないことだ。

▼覚書。
継母はギリシアでも「きつい」「不親切」なものだった。「母の日」というのは運のいい日、「継母の日」というのは運の悪い日のことだったし、「船の継母」というと、うっかり近寄ると危険な岸のことだった。

モンテーニュ『エセー』はプルタルコスの『倫理論集』にたいへん強く影響を受けているとか。証拠としてモンテーニュは実に五百箇所以上にわたり彼を引用し賞賛しているという。

●ショウペンハウエル『読書について』

全般
我が表現と哲学の師、ショウペンハウエル先生の『パレルガ・ウント・パラリーポメナ』に収められているもののひとつ。彼の主著『意思と表象としての世界』の付録と補遺にあたる。現在岩波で刊行されている三冊(読書について、知性について、自殺について)の中では恐らくもっともポピュラー且つ読みやすい。
私が長年モノを書くにあたって漠然と信条としていたことが、この人によって殆ど全て明確に文章化されていたことがまず第一に私が彼を師とする理由のひとつで、諸所に見られる鋭利で辛辣な箴言の数々もどこか主張の共通する部分が多い。逆に哲学面ではそれほど倣うところが大きいというわけではないが、思索の結果を筆で表現する巧みさに感銘を受けたことが多いのは確か。恐らく私は哲学者としてよりも、一流の、本物の「文章家」として彼を尊敬しているように思う。
特にこの『読書について』は繰り返し何度でも読むべき著作。重要箇所の引用となれば全文を引用するより他にないので、便宜上ここではアトランダムに選び出した箇所を引用する。必ずしも最重要箇所というわけではない。

思索
そもそも思索=考えるということが、何か物理的に目に見える結果を残さないということがこの行為を最も曖昧にしている要因である。読書を終えればそこには”この本は読んだ”という結果、あるいは一種のステータスが残るが、あることについてどれだけの時間思索を巡らしたかということは全く本人の思い込みに依存する。そのため思索は読書に劣るものと一般的に考えられがちである。しかしそれは全く間違っており、むしろ正反対で、実際は「読書は思索の代用品にすぎない」のである。「読書とは他人にものを考えてもらうこと」であり、それによって得られた着想・思想というものは、思索によって得られたものに比べて遥かに脆弱なのだ。

読書は精神に思想をおしつけるが、この思想はその瞬間における精神の方向や気分とは無縁、異質であり、読書と精神のこの関係は印形と印とおされる蝋のそれに似ているのである。読書にいそしむ精神が外から受ける圧迫ははなはだしい。衝動的なつながりはもちろん、気分的なつながりさえ感じない、いろいろなことを次々と考えていかなければならないのである。

そもそも自分で考えるということは、誰かから何かを教わるということとは根本的に動作が違う。前者は自分だけに根ざした活動であり、全ての帰結は自分の中、あるいは自分を通した外界の情報から取り出される。それは彼風に言えばそのときの自分の精神にもっとも合ったものであり、それだけに色あせることなく強烈に残り、整理され、応用がきき、生きた知識、思想となるのである。一方、人から得た知識はただ単に情報を押し付けられただけであり、それをやはりこちらで思索することがない限り、その知識は永遠に死んだままの知識である。どれだけ量を積んだところで、部屋に未整理のまま散乱した大量の蔵書に等しく、必要なときに何の役にも立たない。あるいは大抵の場合、風化して勝手にどこかへ消えてしまうのである。


著作と文体

文体は精神のもつ顔つきである。それは肉体に備わる顔つき以上に、間違いようのない確かなものである。他人の文体を模倣するのは、仮面をつけるに等しい。仮面はいかに美しくても、たちまちそのつまらなさにやりきれなくなる。生気が通じていないためである。だから醜悪この上ない顔でも、生きてさえいればその方がまだましということになる。……(中略)……こういう事情をひそかに察知しているため、凡庸な著者にかぎってだれでも、自分に特有な自然の文体に偽装を施そうとする。そのためまず第一に、素朴さ、素直さをすべて放棄しなければならないことになる。その結果、文章作成上のこの美徳は、常に、卓越した精神の持ち主、平生自分の値打ちを自覚して、自身に満ちている人間だけに許される。つまり凡庸な頭脳の持ち主たちには考えるとおりに書くという決心が、まったくつかないのである。それというのも、そういう調子で書けば、書きあがったものがまったくつまらないものになりかねない、という予感におびえるからである。

つまらないことをわずかしか考えていないのに、はるかに深遠なことをはるかに多量に思索したかのように見せようとして、不自然、難解な言いまわしや新造語を、だらだらとした文章、堂々めぐりを重ねたあげく、何を考えているのかを不明にする複雑な複合文章を使う。つまり彼らは自分たちの考えている同じ一つの思想を伝達しようとする努力と、隠蔽しようとする努力との間をさまよっているのである。彼らは思想に手入れを施して、博学深遠な体裁をとらせたがる。そのねらいは、今はごくわずかのことしかわからないが、実際ははるかに豊かな内容がその背後に隠れているに違いないという印象を人びとに与えることにある。そこで彼らは時には、その思想をちびちびと小出しに、思わせぶりに書いて行くという手を使う。その武器は短い箴言風な言辞や逆説的朦朧体の託宣である。そういう言葉は、一見、実際含んでいる以上の意味を暗示する効果をもつ。

かなり長く二箇所を引用したが、著作と引用の中ではこれだけ引用しておけば今の時代に大量に溢れるモノカキ予備軍をふるうには十分だろう。特に後者に至っては、ちょっとしたネット小説や短編などではもはや指摘も許されぬほど広まってしまった技法である。ショウペンハウエルはこれをシェリングの自然哲学などを引き合いにだして批判したが、もっと水準を落としてみればこのような日常的な文章表現でも、彼が憂いた以上に蔓延しているのである。逆に言えばそれだけその暗示効果が大きいということなのだろうが、それがわかってしまったときほど、これらの著作が陳腐に見えることはない。最初の数節で読むのをやめるものは八割方これにあたる。


読書について

書物を買いもとめるのは結構なことであろう。ただしついでにそれを読む時間も、買いもとめることができればである。しかし多くのばあい、我々は書物の購入と、その内容の獲得とを混同している。

いわゆる積読である。しかし確かにこれはその通りだが、だからといって書物を買うことがよろしくないというわけではない。書物を買ったときの喜びというのは確かに、その書物を読んでいるとき、場合によっては読み終わったときよりも大きいものだ。それだけに、その本に対する愛着も大きく、したがって内容に対する理解や記憶も優れるだろうというのが私の意見である。ショウペンハウエルがこれに対してどう答えるかはわからないが。

読み終えたことをいっさい忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。その当人が食べたものによって肉体的に生き、読んだものによって精神的に生き、今の自分となったことは事実である。しかし肉体は肉体にあうものを同化する。そのようにだれでも、自分の興味をひくもの、言い換えれば自分の思想体系、あるいは目的にあうものだけを、精神のうちにとどめる。

本を読んで内容を逐一覚えている人を羨ましいと思ったことがあるならば、この言葉で救われる。恐らく彼は不要なものも体内にとどめており、下手をすれば消化すらしていないのだ。だから往々にして彼らは読んだことを「そのまま」語るし、「そのまま」主張する。確かに見た目は博識かもしれないが、何か意味があるだろうか。

●ショウペンハウエル『知性について』

哲学とその方法について

(十五)われわれの見解と対立するような他人の見解に対してみずから寛容な態度を養い、異論に接して忍耐を学ぶ工夫としては、おそらく次の工夫ほど有効なものはないであろう。それはすなわち、われわれ自身その同じ主題について相次いで反対の意見を抱き、こういう相反する意見を、時としてはごく短日月の間にさえ、幾度も取り替え、そしてその主題が時にはこの照明を浴びて現れ、やがて次にはあの照明を浴びて現れるにつれて、あるときは一方の意見を、また他のときにはその反対の意見を、あるいは排斥しあるいは採用してきたということがいかにしばしばであったかを想起してみることである。同様にまた、他人の意見に対してわれわれが提出する異論に彼の耳を傾けさせるには、「前には私も同じ意見をもっていたのだが……」という言い方ほど適切なものはない。

あるひとつの意見が、それに対立するものや関連するものをすべて吟味・経過した上で得られたものか、ただ単に気まぐれの思いつきなどで他の意見の考察なしに得られたものかの差はあまりに大きい。仮にその見解が述べることの確からしさは等しくとも、説得力という点では圧倒的に後者は劣る。自分自身、その意見が事象をどのように説明しているものなのか、事象の理解にどのように役立つか、そういう全体とのかかわりが全く見えていないからだ。そういう習慣が甚だしくなればやがて世の中を一点透視法でしか見れなくなる。いわゆる視野狭窄を引き起こすのである。

(十八)われわれの先人思想家たちがすでに見出していたことを、彼らに依らずに、またその事情を知るよりもさきに、自分自身の力でみずから発見することには、大きな価値と効用とがある。なぜなら、われわれは自分で得た思想を、他人から習得した思想よりも、遥かに深く理解するものであり、そして後になってそれをあの先人たちのもとで見出すときには、期せずしてその真理性の有力な証拠を――広く認められている他人の権威によって――得るのである。われわれはこのことによって、それ以後いかなる異論に対してもそれを擁護する自信と恒心とをかちうることになる。

彼の思想は、その完成度にこそ差はあれ、著しく私の思想に被るところが多い。この偉大な哲学者と同じことを考えていたとは、素直に嬉しい気持もあるが、それにしても短い人生とはいえ自分なりに発見して絶えず育ててきた思想が、既にほぼ余すところ無く既に書物に記されていたとは、と悔しくも感じていたのが正直なところだ。しかしこの十八番に至り見事に解決した。誰かがあてもなく彼の著作を読んだのと、彼の思想を予めおおよそ理解していたものが彼の著作を読んだのでは、明らかな差があるのだ、と彼自信はっきり言ったのだ。これを私が受け入れない理由はない。やはり彼の思想に行き当たったことは幸いであったと改めて思った一説である。以下、それに続く一文。

これに反して、何かをまず書物の中で見出したという場合には、のちに自分の反省によって同じ結果が得られたにしても、これが自分の思考と判断によるものであって、単にあの先人たちの口まねや借りものの感想ではないということが、どうしてもしかと弁じえなくなる。ところがこのことは、事柄の確信度において大きな差異を生ずるもとになる。なぜなら、第二の場合には、ちょうど水流がそれに先立っていったものの水路に従いやすいように、ひとは先入観にもとづいてあの先人たちとともに正道からそれていたのかも知れないからである。二人がそれぞれ自分で計算して同じ答えが得られたならば、これは確実な結果である。しかし一方の人の計算を他方の人がただのぞき見たというのであれば、話は別である。

計算の喩えは極めて上手い。そしてこのことは、書物を読みはじめるのは若ければ若いほどよく、多ければ多いほどよいという誤謬を正すにもよい引用となる。若いということはそれだけ自分の思想がまだ育っていないということであり、得てして影響を受けやすいということである。そんなときに大量の――恐らくは現実的に大量の誤りもまた含んだ――書物を読めばどうなるか。結果は明らかである。


論理学と弁証法の余論
ショウペンハウエルの直感主義的論理学についての余論。ひとことで「ア・プリオーリに確実な真理に矛盾するものは排斥さるべし」という言葉に尽きる。実用的には(二六)の帰謬法の手続きや、詭弁を弄する輩の手口について、その見分け方と反撃法を解説している箇所が面白い。そのすべてが記されていないのが残念だが、挙げられた数例だけでも実に頷けるところが多い。

この戦術的な方向転換のもっとも巧妙なやり方は、論争の方向を少しずつさりげなく、もとの主題に似かよった論点へ、できれば、ただ観点がちがうだけで実際にまだもとの主題そのものにかかわる論点へ、ずらし移していくというやり方であろう。テーゼの主語だけをもとのままにしておいて、主題になっている論旨とは何のかかわりもない別な連関を引き合いにだして、たとえば、中国人の仏教について論じているのに中国の茶貿易に話題を移すというようなことになると、これはもうあまり上等なやり方ではなくなる。……(中略)……一体、この方向転換という手は、不正直な討論者たちが本能的に用いるあらゆる手口のうちで、もっとも愛用され慣用されているもので、彼らが窮地におちいると、必ずといってもよいほど出現してくるものなのである。

全く、何度これで苦い思いをしたことか。しかもさらに悪い場合には――彼はここで論じるのを忘れているか、或いは意図的に触れてはいないが――彼らは論点をずらしたことを決して認めない。それは多くの場合、意図的に自分を防衛しようとしているというよりは、本当に自分が論点をすり替えたことに気づいていないのだ。まさにそのすり替えという手段を窮地脱出のための”本能的”手段として用いているのである。改善の余地が見られない場合には、そのような人々とはあまり本気の論争をすべきではない。本当の意味での決着は決して付かず、結局のところ、根気負けした方が負けたような体裁になってしまうからである。柔道の試合に刃物やピストルを持ち込んできて、相手が降参したのを見て勝ち誇るようなものだ。得られるものは少なく、失うものは大きい。時間も無限にあるわけではないのだから、極力”話のできる”人と話をしたほうが有益であることは間違いないだろう。


知性について
本書の主題にもなっている章。百頁弱の中に、凡そ日常的に私たちが悩みうる知性についての解説はここにあると思ってよい。『読書について』でも言ったように、引用したい気持だけなら全文であるが仕方ない。(三一)(五十)より気に入った比喩をひとつずつだけ、引用しておこう。

すなわち、生命は周知のように一種の燃焼過程であるが、それにさいして発する光が、すなわち知性なのである。

(二九)で数頁に渡り時間と存在について語った後のまとめ。外部の物理世界における光を、ここでは内部の意識世界における知性に喩えている。彼自身それを奨めているように、なるほど直感的にはわかりやすい。

どんな楽器でも、空気の振動だけから成り立つ純粋な音に、なお自分の材質の振動の結果生ずる異質的な付加音を混入しないものはありえない。それというのも、空気の振動はこの材質の振動の衝撃によってはじめて生ずるので、それが副次的な雑音をひきおこすからである。……(中略)……さてこれと同様に、どんな知性でも、認識の本質的な、純粋に客観的な内容に、それと無縁な主観的要素を――すなわち、知性を支えて条件づけている個人性から生じてきて、従って何か個人的な要素を――混入しないことはありえない。そしてこのために、その認識の内容がいつも不純になるわけである。

もう少し砕いていえば”わかる”ことの難しさ、ということだろうか。何かの事象に対してわれわれがする認識というものは、われわれがする、といっている以上完全に個人的な作業であるから、そこには必ず主観が混じる。主観を交えないように、というのは何か意見を発するときによく言われることだが、それ以前に既に認識そのものが主観を帯びているのだ。彼はこのとき影響を受けなければ受けないほど「完全な知性」としている。しかし私が思うに、それは「よい知性」とは別物だ。極端な話、影響を全く受けないということはインプットとアウトプットが全く等価ということであり、従って外界とのかかわりという点から見れば、この中間要素である”私”に意味はない。外界のことを正しく、完全に客観的に把握したあるものが、それを正しく伝えたというだけの話である。楽器の喩えで言えば、それは何の振動も生み出さない楽器である。したがって音はでない。音が出ない楽器とは何であろうか。


物自体と現象との対立に関するニ三の考察
彼の主著『意思と表象としての世界』の補足的な役割を果たしている一節。「すべて、理解するということは、表象の作用である」を基本に、現象、表象、理解の関係を明らかにしていく。一般実用的にはあまり得るところはないかもしれないが、純粋理論としては面白い。次の章、汎神論について、も同様。これは六頁しかない短い章なので感想は省略する。


『読書について』ほど繰り返し読みたいかといわれればそれほどではないにしろ、やはり良書。漠然と世に問われる「知性」という言葉を的確に捉え、表現している点では他の追随は許すまい。内容や訳が堅めで若干読みづらいというのが唯一の難点だが、五百円玉一枚で手に入るものの中では、かなりレベルの高い品ではないだろうか。

●デカルト『方法序説』

デカルトは親切にもはしがきに各章が何について語られているかを簡単に解説してくれている。本来なら自分で要約すべきこの題まとめも今回は彼の恩恵に与ることにしよう。
一章では学問に関する様々な考察と、デカルト自身の青年時代の転機について書かれている。次の二箇所を引用しておきたい。

だが、学校で勉強する教科を尊重しなかったわけではない。わたしは以下のことは知っていた。学校で習う語学はむかしの本を理解するのに必要だし、寓話の楽しさは精神を目覚めさせる。歴史上の記憶すべき出来事は精神を奮い立たせ、思慮をもって読めば判断力を養う助けとなる。すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる。入念な準備のなされたものだ。……

ほかの世紀の人びとと交わるのは、旅をするのと同じようなものだからだ。さまざまな民族の習俗について何がしかの知識を得るのは、われわれの習俗の判断をいっそう健全なものにするためにも良いことだし、またどこの習俗も見たことのない人たちがやりがちなように、自分たちの流儀に反するものはすべてこっけいで理性にそむいたものと考えたりしないためにも、良いことだ。けれども旅にあまり多く時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまう。……

デカルトの学問に対する態度がこれだけでよくわかる。特に前者については身につまされる人もいることだろうと思う。ある程度学習が進み中間期に来ると、学校の勉強を軽視し、他の雑学や知識に惹かれ、そちらをより人生に有益だとか本当に必要な教養であると考えはじめる学生は少なからずいるが、結局のところ学校の勉強すらこなさぬようでは凡そ他の学問を修めるにはいたらないということだろう。いわば最低限といったところだ。昔の自分自身にも大いにあてはまるところがある。
自分の国で異邦人になってしまう、というのはさしあたり次の二点においてであると考えられる。即ち一つは地理的な問題であり、一つは時間的な問題だ。ショウペンハウエルも指摘するように、過去現在に関わらず多くの知識を吸収することが必ずしもよいとは限らない。砕いた解釈をすれば、どのような知識・経験も今自分が立っている「ここ・現在」に何らかの形で帰結できなければあまり意味をなさないということだろう。

二章では彼の探求した主な規則について、その起源とともに平易に解説されている。引用は「論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら」必要十分である四つの規則。

第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。 第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。 そして最後は、全ての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。 (中略) そしてそれまで学問で心理を探求してきたすべての人びとのうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見いだしえたのは数学者だけであったことを考えて、わたしは、これらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった。

こうしていよいよデカルトは後に解析幾何学の基礎を築くにいたる。それにしても、第一章から既に感じられることだが、デカルトという人は他の名著に名を連ねる歴代の哲学者面々とは大分毛色が違うようだ。一章で自ら「ほかの人たちと同じくらい頭の回転が速く、想像力がくっきりと鮮明で、豊かで鮮やかな記憶力をもちたいと、しばしば願ったほどだ」と語っているように、確かに天才肌といった感じではない。語られる言葉も非常に平易であり、私たちのような普通の一般人に極めて近い気がする。デカルトの優れている点はやはり、そういう自覚の故に、着眼点や思考順序、判断の基準といったような、本当に基本的で土台となる部分に最新の注意を払って思索を進めたことにあるのだろう。「きわめてゆっくり歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる」。

▼覚書。
スコラ用語「偶有性」
そのものの本質に属さない性質のこと。対して「形相」はものの本質を構成する精神的原理のこと。

スコラでは天文学、音楽、光学、力学なども全て「数学」と呼ばれる場合があった。これらは研究対象の区別という点から数学に属する”別の学問”とされていたが、デカルトはこれに対しそれらを構成する知性の観点から、数学をモデルにとって、連鎖を見いだし統一をはかった。


三章~六章
三章はデカルトが実際にどのような道徳上の規則を見い出したのかについて。四章と五章ではその形而上学の基礎や神と魂の存在証明など、内容は若干抽象的になる。有名な彼の言葉「われ思う、ゆえにわれあり」もここでその原理たる所以が示される。以下、三章からは少々長いがデカルトの行動理論を示した箇所、四章からは上記の名言に関連した一節を引用。

旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一ヶ所にとどまっていてもいけない。いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方向を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。というのは、このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ。同様に、実生活の行動はしばしば一刻の猶予も許さないのだから、次のことはきわめて確かな真理である。どれがもっとも真なる意見か見分ける能力がわれわれにないときは、もっとも蓋然性の高い意見に従うべきだということ。しかも、われわれがどの意見にいっそう高い蓋然性を認めるべきかわからないときも、どれかに決め、一度決めたあとはその意見を、実践に関わるかぎり、もはや疑わしいものとしてでなく、きわめて真実度の高い確かなものとみなさなければならない。われわれにそれを決めさせた理由がそうであるからだ。……

一度決めた意見を決して疑うことはしない、というのはもちろん思索の方向についてであって、間違いがはっきりと露呈した場合にはもちろん改めるべきだろう。そこを踏まえて「たいした理由もなしに」と述べられている。もっともデカルトはここでは考えていないが、「まっすぐ歩く」ことそれ自体がそもそもわたしたちにとってはある程度難しい。進路がまっすぐであるという保証は何が与えてくれるのだろうか。

ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。(中略)しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する[ワレ惟ウ、故ニワレ在り]」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。……

それ故、自分が他のものの真理性を疑おうと考えていること自体から、まさに自分が存在することが帰結するわけである。ところでここで「全てのものを疑う」としているデカルトの立場と懐疑論者の立場は決定的に異なる。かれら懐疑論者が「疑うためだけに疑い、つめに非決定でいようとする」のに対し、デカルトは全てのものを”いったん”疑うことで、ひとつひとつ反省を加え、既知であった事柄に潜む誤謬を根絶していったのである。

六章はデカルトがこの書を執筆するに至った動機や、先に進むために必要だと考えることについて。特に引用する箇所はないが、章頭で述べられたことに関連して、物語創作に関連付けて少し自論を展開してみたい。

人はみなそれぞれ、程度の差こそあれ独自の哲学を持っている。そしてまたそれが誰に影響されたか、何に依っているかに関わらず、その哲学はその人にとって一番のお気に入りであることは間違いない。わたしたちが人の哲学に触れるのは、それによって自分の哲学をよりよいものにしていこうとするからに他ならない。殆ど全ての場合、哲学の吸収は能動的に行われるのだ。だからこそ哲学を押し付けるようなものは往々にして嫌がられるし、遠ざけられる。物語について考えてみれば、哲学を前面に押し出して主人公なり誰なりがそれを強く主張し完結するものは多く氾濫しているが、それが絶賛を得るのは読み手の哲学が求めていたものにたまたま合致していた場合にすぎない。これらのものは作者自身にとっては奥深く示唆に富み、自身の叡智と鋭い思索を見事にまとめあげた名作ように見えるが、実はそう見えるのはそれがまさに自分のお気に入りの哲学を反映した作品だからなのである。あまりに強くそれを表に出せば出すほど、書き手と読み手のリアクションギャップは広がっていくことだろう。大切なのは語ることではなく、聞いてもらうことである、という基本的なことを失念した物書きは近年驚くほど多いように感じられる。

デカルト曰く、「生き方については、だれもが十分に自分の見識をもっているために、人間の頭数と同じだけの改革者が現れることになりかねない」。その通りだが、ひとこと「生き方については」は余計であると個人的見解を述べたい。すべての考えうることについて恐らくそうであろう。思考や哲学は人に伝える際も自ら展開するにとどめるべきで、人に押し付ける性格のものでは全くないわけだ。”教えてあげようは二流、それとなく悟らせてこそ一流”。誰の言葉だっただろうか、正鵠を射た表現だ。

▼覚書。
スコラ用語「想像空間」
有限な現実世界の果ての向こうに、想像力だけがとらえる無限空間があるという。その世界をスコラ哲学では想像空間と呼ぶ。

スコラ用語「通常の協力」
神が宇宙を、奇跡などの超自然的な働きによってでなく、神が立てた自然法則によって通常どおりに維持する働き。