夏。紅魔館の屋根屋根は、いつにもまして紅い。
真午どき。日は中天にかかって高く、今日も暑さは並々ならぬ、雲はないし湿っぽいしで、どこもかしこも身が重い。虫とて葉とて、機敏に動くものはなく、塔のてっぺんではたらく大時計も、いつに変わらずぐったりと時を刻んでいる。それでも今日は風のあるのがまださいわい、館はどこもかしこも力いっぱい窓を開け放して、わずかばかりの涼を納れ、人っ子ひとりいない庭では、撫でつけられた芝生のうえで、ひっきりなしに熱が巻いていた。
――それらのけだるい時計の針や、渦巻く風が、ひととき止まる。
広い明るみの庭の一角、館を真正面に見据えた正門をくぐって左手の、すこし小高くなったところに、ささやかな茂みがある。ちょうど一軒の家がすっぽりと収まってあまるほどの、孤島のような緑のかたまりだ。館を取りかこむ高い木々の林からぽつんとはなれているので、まるで枯山水の置石のように、それ自体、庭のひとつの景観になっていた――みなたいていは、景観と思っていた。なにがしの用で訪れる客たちも、紅魔館に朝晩を送る従者たちも、館の当主のお嬢様でさえ、そう思っていた。
けれども近づいてよくよく見ると、装いは自然のままながら、すっとひとすじ中へとつづく道がある。そうして、もうだいぶ人が行き来したらしい、そのよく踏みならされた道を縫っていくと、せいの高い木が一本、日盛りの広がりに茂った枝を広げて、その涼しい陰には、まっしろなパラソルが立ててあるのだ。傘のおもては、葉の間をこぼれる日差しに文模様をなして、いかにも夏の木陰らしい。
――何の前触れもなく、たったいちど、さくと草の根を踏む音がした。時がまた、動きはじめたのだった。
「や、咲夜さん、いらっしゃい」
パラソルとお揃いの、まっしろな椅子に座ったまま、美鈴は顔を上げた。背景に溶け込むようないつもの緑の服装に、長い茜色の髪をゆったりとたらして、午前の立ち仕事の報酬とばかり、さもさもくつろいでいる。
「遅くなってごめんなさいね」
咲夜は、両手に運んできたトレイを丸テーブルに下ろすと、向かい側の椅子に腰を下ろした。こちらの椅子は、美鈴のものよりもずいぶんきれいに見えた。パラソルの下には、ちょうど机を挟んでふたりが座れるように、いつもふたつの椅子が用意されていた。けれども、ふだん使われるのは片方だけだった。ここは紅魔館の門番の、お気に入りの休憩所なのだ。今日はその場所を借りて、待ち合わせてふたりで昼をとる、ちょっとめずらしい日だった。
「待ちましたよ、お腹ぺこぺこです」
そう言う彼女の待ち侘びた表情は、底抜けに明るい。そうして咲夜が、持っていた皿の覆いに手をかけると、待ったとばかり手を差し出して、んんと唸ると、
「ジャムとマーガリンのコッペパンに、いつものサンドイッチのセットと見ました。鶏肉と、タマゴハムとで半々ってところでしょうか。紅茶はシンプルにアールグレイ。デザートは、たしかいただきものの白桃がありましたね、あれでしょう」
「あきれるわ。でも、九十点」
「あら、何か間違いました?」
「白桃だけ」
「ふうむ。まさか、ウーロン茶ゼリーじゃないですよね。あれは失敗でしたよ」
「はいはい、もう作りません。まあ、デザートは、食後の楽しみでいいじゃない」
「それもそうです」
覆いを外すと、まるで魔法かなにかのように、美鈴が口にした予言のメニューがそっくりそこへあらわれた。美鈴はしたり顔で、どうですご覧くださいと言わんばかり。そうして、咲夜がまだ紅茶の準備をしているあいだに、さっそくコッペパンにかじりついた。
あたりは蝉の声で埋まっている。じいじい、じゅうじゅういう虫の音に交じって、時々ひひひと鳥も鳴く。そんな音たちにまぎれて、たわいのないことばがやりとりされる。サンドイッチはふたつずつなくなっていく。食後の紅茶に差しかかったときには、あたりはかっと明るくなった。真夏の昼の、真っ盛りだった。
「いよいよ暑くなりそうね」と咲夜は目を細めて、パラソルの外の、光と熱の世界を透かし見た。「つらかったら、午後は誰かと代わってもいいのよ」
「それはありがたいお話ですけど、この炎天下に一日じゅう立っていられる人が、私以外にいますかね」
「いないわね。でも、交代でなら」
「そですね。でもまだまだ平気ですよ。それに、なんてったって、私は、紅魔館の顔ですからね」えへんと得意げでいる。
「それは初耳だわ」と咲夜がまぜっかえしても、さしてはこたえたふうもなく、
「そう言わないでくださいよ。まあ、あと四度か五度暑くなったら、さすがの私も一日じゅうはつらいかもしれませんから、そのときはお願いします」
「そんなにはならないでしょう。あきれた体力ね」
「それだけが取り柄ですから」
「食べ物の勘もたいしたものよ」
「それ、褒めてるんですか?」
「半々」
そういう咲夜のいいようにも、美鈴は、半分褒められれば上々とばかり、けろりとしているので、咲夜はいよいよあきれるのにも甲斐なくなって、
「でも私はなんだか、この暑さつづきで疲れちゃったわ」と語気をくずした。
「やっぱり、中も暑いですか」
「門ほどじゃないけれど。窓を開けたくらいじゃ、とても」
「ここも寒暖は案外きびしいところですよねえ」
「冬はまだ暖炉でなんとかなっても、夏のこの暑さばっかりは、どうにもね。パチュリー様がいろいろ頑張ってくれてはいるけれど、あんまり無理はさせられないわ」
「そういえば、いつも図書室は涼しいですね」
「お嬢様が入り浸りよ」
いつか紅茶のポットが空になる。そうして、口休めに静かにしていると、しぜん落ちついたふたりのまわりに、ときどきそっとあたたかい風がやってきて、風上にすわる咲夜の首筋に触れた。垂らした髪がふわりと浮いて、また落ちた。咲夜は乱れた髪を撫でつけて、ふう、と笑い混じりの息をつくと、
「ほんとうに、たいへん」
かたしたテーブルの真ん中に腕を置いて、その上に頭をくたりと投げ出した。そのいつになくくだけてあどけないしぐさに、美鈴は、ふいに期待を込めた色を浮かべて、
「あれ、今日はそんな気分ですか」
「そんな気分ね」
そう言って、見上げた咲夜の子供子供した笑い顔に、
「なんだ、じゃあ、デザートはアップルパイですか」
美鈴はからからと笑って、いよいよ嬉しそうに、デザートの覆いをつまみあげると、白い皿のうえには、ひとくちサイズのアップルパイがふたつ、ささやかに寄り添っている。ひとつをつまんで口に運ぶと、懐かしい味がした。そうして、咲夜の手が伸びるよりはやく、もうひとつを手にとると、取り損ねたその不満らしい視線にも平気な顔をして、それをけしかけるように、結んだ彼女の口元に寄せた。咲夜は黙って口を開けた。そうして、テーブルに頭をもたせたまま、もくもくと頬張った。
「咲夜さん、お行儀悪いですよ」
「そうね」
美鈴は、その澄ました答え方が可笑しかったらしく、また、その投げ出された頭にいつもどおり手をのせたときの、眠気に誘われたような、安心したような目の伏せようが、なおなお可愛くて、可笑しくて、とうとうくすりとひとつ、笑いを洩らした。
そうしていっとき、パラソルの下は静かになった。ただときどき手の動きにつれて、紅茶のカップがカタカタと音を立てた。そのカタカタという響き、風が吹けば飛んでしまう、かるい幻のような、夢のそこに消えていくような響きが、木の葉のあいだに滲んでいくと、それまで思い思いに鳴いていた虫々も、その意味をちゃんと心得ているかのように、いくらかやわらいだ音で、じいじい、じいじいと節を合わせて鳴きはじめた。そうして、茂みを満たす和音は、けれどもひとつも空へは逃げず、土に沁み込んでいった。日差しは増して、いっそうあたたかくなってきた。
やがて、紅茶のカップが落ち着きをとりもどしたときには、もう咲夜は頭を腕から離して、ふたりとも、ふだんのつかれもなにもかも、いっぺんにとりもどしたような、えんりょのない心地よさのうちに顔を見かわしていた。
「元気、でました?」
「だいぶ。妙な癖がついたものね」
「いいと思いますよ。人間、こういうのも大切じゃないですか」
そう、言い含めるようなことばは、いつも遠慮がちな彼女のことばらしからぬ、めずらしく力強く聞こえた。声にも、いつになく自信がこもっていた。
「そうかしら」
「そうですよ」
時間が来た。またふたりの、各々の持ち場での、午後の仕事がはじまる。
「休憩ももうおしまいですね。ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
「さあ、ひきつづき頑張りますよ。咲夜さんも、しっかりしないと。ぼんやりしていてお嬢様に叱られたら、ことですよ」
と、さっきまでの調子で声をかけると、咲夜は、済んだ食器をトレイに乗せながら、竦めるような眸をしてみせて、
「あら、あなただって、今月の仕事は褒められたものじゃないけれど。何回侵入を許したと思って?」
「ありゃ、もうメイド長モードですか。――それに、黒いのは勘弁してくださいよ。あれはどうしたって、私の管轄外です」
「冗談よ。午後もよろしく頼むわ。それじゃあね」
そう言ってくるりと踵を返すと、それきりまた騒々しい夏の木陰だった。草を踏む音は、やはりいちどしか聞こえなかった。咲夜はきっと、ここへの出入りを誰にも見とがめられることなく、もう屋敷についているだろう。
美鈴は、さっき手に絡んだ銀色の髪の、そのやわらかい感触が、なんだかいまになって懐かしくなった。そうして、脳裏にぼんやりと残る最後の彼女のうしろすがたが、いつしか、頭を撫でてやるといつもよろこんだ、アップルパイが大好きな女の子の、見なれた小さな背中に見えた。
「咲夜さんもここに来ると、咲夜ちゃんのころとちっとも変わりありませんねえ」
けれども、見やるさなかの木洩れ日に、こっそり洩らしたそのたいせつな内緒は、ちゃんと木々の茂みに守られて、誰にも聞かれることなく、そっと蝉時雨に溶けて消えた。
(2008年09月06日 「東方創想話 作品集その59」にて公開)
Zip版あとがき
美鈴の方がゆっくり年を取るとして、幼いころの咲夜さんを知っていたら、あるいはこんな秘密もあるかもしれない。
そんな内緒の一幅を、こっそり書いてみました。仕事柄、咲夜さんの方が立場的に強く描かれることの多いふたりですが、
プライベートではどちらかというと美鈴のほうが慕われてそうなイメージです。
もっとも、慕うといってもみょんゆゆ様ほどのそれでもなく、ちょっとした気持ちのことで。
良き友人関係であってくれれば、それに越したことはありません。