雨音はなにも訴えない。風のように哭くでもなく吼えるでもなく、ただなにか言い残したことがあるみたいに、遠慮がちにささやくだけだ。耳を傾けていなければ、降っていることさえいつか忘れてしまう。
冷ややかに降る、軽くこまかな、侘しい冬の雨だった。
チルノはしばらく何も言わず、突然の気まぐれな雨を恨めしそうに見ていた。どこからともなく沸いてきた雲、果てまで重く垂れ込める空。まだ午後になったばかりながら、窓の向こうは夏の夜みたいに藍色めいて薄暗い。
お決まりの雨
もよい。
「つまんない」
チルノは口を尖らせそう言いながら、窓から目をはなして、椅子をがたがたとやった。
遊び相手を連れ出しに訪ねた矢先の降り出しで、時雨といえどすぐにはあがる様子もなく、山野を駆けて遊びまわる楽しい予定をご破算にされて、すっかり機嫌を損ねていた。そうして私のほうも、家の中で過ごすなんの用意もなかったから、ふたりともまるで手持ち無沙汰になってしまったのだった。
「仕方ないさ。そのうち止む」
「やまなかったら、どうするのよ」
「明日まで降ったりしてな」からかうように言ってみたものの、そうならないともわからない。「そのときは、泊まっていくしかないぜ」
「あたい、なんにももってきてないよ」
「いつだってそうじゃないか」
困ったような声を出すチルノを笑いとばしながら、もしかそうなったときのことも考えて、私はチルノに貸してやる寝具について思案していた。この頃は、真冬のような風が吹いた夕べのあとにも、初秋のようなあたたかい夜の訪れることがあって、寝着の装いにはじつに手を焼かされる。
とはいえ、もうそんな時期も過ぎたのかもしれない。しばらくつづいた晩秋のきびしい寒さの追い打ちに、今日の時雨はささやかながら、わずかに残った枯れ葉たちを払い落して、立ち枯れた淋しい姿の冬の木立をひとつふたつ、また新しく拵えるだろう。このあたりもずっと見透しがよくなって、ようやく冬景色だ。秋もいよいよ鳴りをひそめていく。今夜はきっと寒くなるだろう。
「もう落ち葉遊びもできないな」
「きょう、やろうとおもってたのに」
チルノはつまらなそうにそう言って、もういちど窓の外をひと
睨みすると、いちにと真剣に指を数えはじめた。
落ち葉遊びは、ふたりだけのあいだに通じる秋の遊びで、ひらりと落ちかかる枯れ葉を見つけては、地面に着く前に、私はそれを弾で撃ち抜き、チルノはそれを氷らせる。そうして時間のあいだにより多く、自分のしごとを達成したほうの勝ちというものだった。進みはほとんど互角で、チルノはいつも接戦を楽しがった。そうして私は私で、くだらないと思いながら、やりはじめるとけっこう本気になってしまう。
「ことしはあたいのほうが勝ったわ」
指を数え終えたらしいチルノが、自信たっぷりに言った。
「どうだか」
「ほんとうだってば」
「たしかに、今年はそうだったかもなあ」
あんまり強気に来るので、張りあう材料もなしと先に折れると、チルノは満足そうにふふんと笑った。けれどもほんとうを言えば、氷らせるよりも打ち抜くほうが狙いが必要で、ずっと難しいのだ。
「なあ、湖が氷ったら、スケートができるな」
「たぶん、あと二十日くらい」
「さいしょの一日は、競争だぜ」
「のぞむところよ」
部屋はぐっと冷え込んできた。立って暖炉を掻きたてると、つきのいい炭はいつもより盛んに熾って、ふいの冷たい来客にも負けまいとするように、あかあかと揺らめいた。
立ったついでに、諸々のしたくも済ませてしまうつもりで、
「あったかいものでも飲むか」と訊くと、
「んー」
「ココアだぞ」
「飲む」
甘えるということを知らない、無邪気な答え方をする。はじめ煮え切らない声を出したのは、きっと前に飲ませたコーヒーが苦かったからだろう。
砂糖はじぶんで足せよと言うと、角砂糖をみっつも入れた。
天候に悪態をつかなくなって、もうだいぶ気持ちも落ち着いたのかと思えば、やっぱり外に出られなかったことがくやしいらしく、さもさもがっかりしているように、両肘をついてちびちびとココアに口をつけた。もしこのまま眠りこけてしまったら、きっと自分とふたり、外ではしゃぎまわる夢を見るにちがいない――そう思ってなにげなく見ていると、どうもあまり美味くなさそうにしているので、混ぜ棒でひと掻きしてやったら、ずっと甘そうにつづきを飲んだ。頬が赤みを帯びて、瞳がすこし輝きを取りもどす。そんな些細なことにも、ちゃんと色を変えるのが可笑しかった。
拭ったように美しい、青いふたつの瞳。私はこれが大好きだった。そのレンズがこれまで写してきた素敵な景色をそのままに凍らせて、きゅっと中心に閉じ込めたような、すこしずつ完成していく、けれども永久に完成しない、いつまでも美しくなりつづける氷細工の球体。青なのはきっと湖ばかり見ているからだろう。水面と、空の光に馴染んで青いのだ。氷のように透明感あふれる清冽な色合いを隠そうともせず、きらきらと吸い込んだ光をいっぱいにみなぎらせて、まばゆい反射のうちに色彩を汲んでいる。
私の宝石箱のコレクションをひっくり返しても、こんなに心を奪われる光彩はどこにもない。ラピスラズリもサファイアも、トルマリンも青珊瑚も、ぜんぶ霞んで見えるほどの、きっと世界でいちばん鮮やかな、青。けれどもその代えがたい輝きを、私がどんなに愛しく思っているか、当の本人に伝えてみようと思っても、それがなかなか難しい。
「お前の眼、ほんとにきれいだなあ」
と言えば、
「そう?」
とわからない顔をしている。いつだってそうだ。
どうやって気を紛らしたものか、ほんとうになにも思いつかなかった。思考の熱を一か所に集めておくだけのどんな力もなくて、考えること考えること、次々とあたりのものうい拡がりに散っていくような気がした。
「魔理沙は、こんなときいつも、家のなかでなにしてるの」
出し抜けにチルノが尋ねてくる。めったにそんなことは訊かないのだから、向こうももうよほど退屈しているらしい。
「本を読んでるぜ」
と、私はことさら思い出そうとするでもなく、まるで最初から答えを用意していたみたいに、すぐにそう答えた。雨の日に家にこもってすることなんて、それくらいしかなかった。
「ずっと?」
「晴れるまで」
「本って、なにがおもしろいの」
「そりゃあ」
私はさっきのように、当然答えるべきことがあるつもりで、威勢よく切り出したものの、こんどはあとが続かなかった。
「人それぞれさ」
と言い紛らしたのにも、
「魔理沙は?」
持て余した好奇心は、どうにも逃がしてくれない。
「私は、そうだなあ」
本の何が面白いか、それくらいのことを考えたことがないわけではなかったけれど、かといってそういうまっすぐな問いかけに、返すべきひとつの定型句を持っているわけでもなかった。
ゆらゆらと燃える好奇心は、たしかにいつも身のうちに感じている。けれども、だからといってとくべつ何かを知りたい確かめたいというわけでもなく、むしろどちらかといえば、
ここを捨てて行きたいという脱出の願望に近いものを、私は自分の読書に感じていた。旅はなにかを確かめるためにするものだというのなら、私のそれは、いつでも愛するものを持っていたくないという
遊牧民の淡い旅心のようなものだろう。
そういうぼんやりとした気持ちの、わかりやすい表現を探しながら、ひとまず思いついたままに、
「知的好奇心というか、旅というか」
と口走ると、チルノはやはり「どういうこと?」と首を傾げてじれじれしている。私もおなじくらいもどかしい。
なんでもいいから新しいものを探しにいくのだ。いつまでと言われれば、いつまででも探しているという気がする。そう思ったとき、
「宝探しみたいなもんかな」
と言ったことばは、どうやら心中をすっきり言い得ているような気がした。
「ふうん。どんなたからものがあるの」
「本によるさ。でも、どんな宝物かなんて、いいじゃないか」
「なんでよう」
「べつに見つからなくたっていいんだよ。面白いことが待ってるかもって、そう思うだけで、楽しいじゃないか」
宝探しはチルノも好きだ。だからそういう言い方に込めた微妙な心境も、きっとわかってもらえると思った。期待を込めて「わかるだろう」と訊くと、チルノは「うん」と素直に答えた。私はそれだけで、なんだかすごいことをやり遂げたような、うれしい気持ちになった。
「それじゃなかったら私だって、お前の怪しい情報にいつもいつも、つられて行ったりしないぜ」
「あやしいとはしつれいね」
「お前の持ち込む話の身元が知れてたことなんて、一度でもあったか?」
『今日はあっちに、ぜったいおもしろいことがあるんだから』というチルノの口ぐせのような誘い文句に、私は何度も騙されたし、そうしてまた何度も、一生忘れられないほどの「おもしろいこと」にめぐり会わせてもらった。
「だから、新しい本を読むのも、お前についてくのも、そんなに変わらないよ」
とすれば、そうして宝の地図ばかり追いかけている私はもしかすると、いつまでたっても子供のままなのかもしれない。
「本、読んでみたいと思うか?」
こんどは私が、逆に尋ねてみた。
「べつに。よめないもん」
つれない答え。半分拗ねたような言い方は、さっきのやりとりを引きずっているのか、読んでみたいけれど読めないから諦めているのか、それともほんとうに読みたいと思っていないのか、よくわからない。けれども、
「誰でも簡単に本を楽しむ方法があるぜ」
と言うと、すこしは興味を示したので、私はさっそくチルノを先に書斎へ追い込むと、すこし待っているように言いつけた。そうしてもうそろそろ出番と思っていた、身の丈に合うものよりもずっと大きい男物の、あったかい丹前を出してきて着込み、長い余り布を床に引きずりながら、自分もあとから書斎へなだれ込んだ。
扉一枚を挟んで居間と床つづきになった、明かりひとつの小さな部屋だ。
ほとんど本で埋まっている。左手の壁一面はまるまる本棚になって、よく読むお気に入りや貴重な大判の本がしまってある。私の好くものばかりを選ってならべた挙句に、どことなく古い時代を基調にした、埃っぽい棚が出来上がったものだ。
奥の壁にはさして大切でもない文庫本や雑誌たちが、天井までとどくほど高く無造作に横積みにされている。いちど読んだきりもう紐解くつもりもないと思われた物語や、必要なときに参照できればいいというくらいの資料程度の文献ばかり。読んだことさえ後悔したようなハズレくじは、とっくに捨ててあってここにはない。
あとは右隅に小さな机があるだけだ。もとは四畳半ほどの部屋でも、腰を下ろせるところは二畳もあるかどうかだった。とくに平積みの本が、自由な場所をじりじりと侵食している。コレクションとお荷物のまんなかで揺れている、不思議な立場の蔵書たち。私はそれらが今日も絶妙なバランスで積み上げられていることに満足して、ひとりでにやりとした。
「よくこんなにあつめるわね」
本と埃の匂いに慣れていないらしく、むやみに鼻をひくつかせて、狭いなかをうろうろしているチルノに、
「あっちの方、見てみ」
と、私はいま来たほうを指さした。開け放した入り口から、ちょうどさっきまで座っていた椅子や、暖炉の張り出した横顔や、その向こうの仄暗い窓が見える。
「ん」
とチルノは顔をずらして覗きこむ。その隙に私はさっと後ろへまわりこみ、冷たい両腕をつかまえると、なにもない居間の様子をうかがう小さな体を、あっというまに布に絡めてつかまえてしまった。気づいたチルノが「あ!」と大きな声を出す、けれどももう遅い、めちゃくちゃに暴れられる前に、私は思いっきり背中のほうへ飛び退いた。
ドシンと家が揺れて、本の壁がザザザ、と轟音を立てて崩れ落ちる。
小さな書斎が、嵐に飲み込まれたようになる。巨大な建造物の表面がいっせいに剥がれ落ちるように、壁は見事に崩れ落ちて、次から次へと降りかかる本の雨。チルノの頭はちゃんと丹前の裾で庇ってやる。かわりに自分の頭はずいぶん叩きつけられて、中身までいっしょに叩き込まれたように、がんがんと重くなる。
やがて、不気味なほどしんとした。崩れるのがあっという間なら、鎮まるのもあっという間だった。
私は自分の態勢を整えてから、ついですっぽり本の下に埋まってしまったチルノを、自分の膝のあたりに乗せるように引きあげた。紙が絡んでばさばさと音を立てる。顔があらわれたとたん、
「なにするのよ!」
と、あんまりびっくりしたらしい、目をくるくるしているので、
「悪い悪い」
となだめるように抱いてやった。逃れようとして身をよじっても、これだけの本に埋もれたうえに、こうして私の両手につかまえられてしまっては、いくら頑張ってみても甲斐はない。ちょうどふたりで湯船に浸かったような形になった。
「こういうのも、楽しいもんだぜ」
折り重なる本また本、その上にぽっかりとならんだ二つの顔。はたから見たらさぞ滑稽に違いない。
「なんなのよう」
けれどもはじめの驚きが収まると、――結局、このおてんば娘は、こういう変わったことが大好きなのだ――本の中で手を動かしてみたり、足を動かしてみたり、あちこちの本のおもてを順々に見まわしたりして、自分なりに、この滅多にない状況を十分に楽しんでいるらしかった。
あるとき、一冊の本を手に取って、しげしげと眺めているので、
「それはいい本だぞ。男の子が、妹を連れて雪山に登るんだ。ふたりのやりとりが可愛くてなあ」
と、ほんの解説を挟んでやると、
「じゃあ、これはどんなはなし?」と別のを取って訊いてきた。
「絵を描いてないと死んじゃう画家の話だな。気が狂ってるみたいに言われるけど、ときどき言うことがかっこいいんだ。私は好きだぜ」
「こっちは?」
「どこにもない国の話さ。戦争も貧乏もなんにもなくて、お金と食べ物はいっぱいあって、こんな国があったら、みんなしあわせに暮らせるのにな、って」
「これ。変な表紙」
「男がひとりで港をうろついてたら、人魚の霊に取り憑かれる話。怖いぞ」
「んー、じゃあこれ」
「それかあ。絶対に振り向いてくれない男の神さまに恋をして……」
ふと私は、こいつに恋と言ってわかるかなと思ったけれども、だまって聞いているのでなにも言わなかった。
「恋をして、つらくて苦しくて、身も心も消え果てて、とうとう声だけになっちゃった、かわいそうな神さまの話だ」
「声だけの神さま。へんなの」
「いまでも山の向こうに大きな声で叫ぶと、その神さまが、おんなじ言葉で返事するんだぜ」
「あたいそれ、知ってる。やまびこって言うんでしょ」
「そうそう、それだ」
と言うと、嬉しそうに体を揺する。そうしてこんどはその拍子にたまたま小指に触れたらしい、薄い本を取り上げて、
「これは?」
と訊いてきたのに、
「それは――」
私のことばは知らず滞った。
「変わりものの妖精が、なかま外れにされて、ひとりぼっちになって」
もし結末を知っていなかったら、この場で読んで聞かせていたら、途中でやめてしまっていたかもしれない。
「でも最後には、親友に恵まれて、ふたりで、幸せになる話だ」
「ふうん」と小さな声を返してくる。どう思ったか、わからない。けれどもチルノははじめて本の表紙をめくり、そこへあらわれたいかにもおとぎ話の口絵らしい、色鉛筆のパステル調で描かれた、ひとりぼっちでうずくまっている小さな妖精の姿をじっと見つめていた。やがてそれにも飽きてしまうと、その先へは進まずにぱたんと閉じてしまったが、放り投げたりせずに、もとあったあたりへそっとうつ伏せにもどすしぐさに、言い尽くしがたいいじらしさがあった。
次の本を拾おうとするその小さな手を、私はふいに取って引き寄せた。
「どれか一冊、読んでやろうか」
「いいよ、わかんないもん」
「やまびこは知ってたじゃないか」
小さな肩にあごを乗せると、冷気がじかに伝わってくる。ひんやりと涼しい空気が頬から寄せる。と、いまさらながらチルノの体の冷たさが、丹前の厚い布越しにもひしひしと胸に迫ってきて、そのじわりとした感触に、いっそこのまま氷づけになってしまいたいと思うほどだった。暖炉にあたためられた部屋のなか、本に埋もれて、心地いい冷たさに浸る。抱かれた方にとっては暑いらしく、もうよほど汗をかいていたけれども、かまわず汗ごと抱きしめた。そんな強引な仕打ちに、チルノはときどき身をもがく。蹴り上げた足が、たまたま一冊の本を書斎の外へ投げ出して、追っていった視線がはたと止まるのに、つられて見ると、暖炉の向こうの床板がやさしい青みに染まっているのは、外から差し込む光線のしわざらしい。
「外、行くか?」
と訊くと、チルノは窓のほうを眺めたまま、しばらく答えにためらって、やがて夢みるような、眠たげな声で「どっちでもいい」と言った。
雨は雪に変わっていた。
(2008年12月07日 「東方創想話 作品集その64」にて公開)
Zip版あとがき
元気いっぱい外ではしゃぐふたりはそれはもう、最高に輝いているに違いないのですが、それじゃあこんなものうい雨の日は……? と思ってみると、
なんだか面白くなってきたので、想像するままに書いてみました。アンニュイのなかのシアワセ。
読みかえしてみるとずいぶん自分らしい語り口になっていて、十分満足行く仕上がりになりました。これくらいよく書けたと思うのは「蝶々の日々」以来かなと。
最近実はちょっとサボり気味だった、ことばの磨きこみ&削り落しをしっかりやった成果か、雰囲気も仮名遣いもつやが戻っているようで、なにより。