にゃーぁ。
畳の上を掃きながら見る庭のかんかんとした陽のよさに、もうこんなに暖かくなったかと、いつの間にか移りゆく季節のそっけなさに驚いた。
季節が私にそっけないということは、私が季節にそっけなかったということだ。思えば今年は春の草花もこれといっては見ていない。それだけ他のことにかまける時間が多かった。身近なところを見まわして大切なことがいくつもあれば、自然なんかを眺めて楽しむ寛度は誰にだってないものだ。傾ける時間は物事への贔屓の度合いに依る。贔屓は愛着だ、愛着は執心だ。それは心を切って充てるものだ。自ずから量に限りがある。今年は単にそれの余りが少なかった。
縁へ出ると見た目通りに暖かい。夏草の鋭い葉先があちこちで眩しい光を跳ねている。
夏だった。春と夏のあいだというようなものは、もうどこにもなかった。
それなら明日あたりみんなで湖に行こう、と私は思った。初夏の水場は気分転換にちょうどいい。主の機嫌がいいうちに、揃って英気を養っておくのも悪くない――そう心に決めて東の方を眺めると、はやる気持ちの上にはもうさざなみの音が聞こえてくる。太陽の鮮やかなオレンジ色が目に映る。燻された湖畔の草いきれが、柑橘の酸味に馴染んで匂ってくる。
「悪くない」
風のない日だった。部屋はすぐに綺麗になった。
濡縁に箒を払うと穂先から金色と黒色との線が庭先へふわりと舞って、追いかけたくなるような美しさで光を曳いて夏草に落ちた。美しいと見れば美しい光景にちがいない、しかし抜け落ちてもなお仲睦ましいと見ればこれほど微笑ましいこともないと思った。馬鹿馬鹿しい想像の遊戯だ。けれどもこんな風情もまた愛着のなせるわざには違いない。
愛着があればこそだ。私は出来ることなら世の中の全てのものに、それが無理ならひとつでも多くのものに、愛着を感じたいと思っていた。幸も不幸もただそこから生じるのだ、愛さないもののためには悩みも悲しみも、争いも嫉妬も決して起こり得ないだろう、とどこかで聞いたそういう言葉の意味が、ようやくとっくりと身に染みてわかるようになったのは、しかしそう遠い日のことではない。
夏の日差しと暖かさと、想像に響くさざなみと香る匂いと太陽と、金と黒との綾なす線の残像と、すべてが忘れがたいひとつの記憶につながっていた。それが次第に脹らんで、限られた心の空間を満たしていった。
鳴き声が聞こえる。
青い夏の日。
昔、たった一度だけ、畳を撫でる箒の穂先に二色の抜け毛の絡んでくることを、心から憎らしく耐えがたく思ったことがあった。
それも夏の暑くなりはじめたばかりの頃だった。涼しい晴れ方をしたある日、ふらりと出かけた主が帰って来ると猫を拾ってきた。
仔猫というにはもう遅い、いかにも健康そうに育った黒いやつで、抱かれながらも物怖じしないふてぶてしさは捨て猫という
風采でもない。溝くさい臭いの抜けきらない典型的な野良猫だった。それを珍しい貝殻でも掘り出してきたみたいに、拾ってきた。
「ねえ、うちで飼ってみない」
そう言って床に置いたその体からは、黒い尾が二本しなやかに伸びている。
猫又だった。
「猫又は猫とは違いますよ」
「知ってるわ。でも、素敵でしょう?」
素敵というのは、見た目を言っているのだろう。たしかに毛並みの良いこと肢体のしなやかなこと、奔放な生活のために多少乱れてはいても、耳の先から尻尾の先まで黒々と変わらぬ深い艶があって、容姿の端麗さは猫にしては申し分ない。模様のない清々しいほど黒一色の体に、形のよい手足。顔立ちも端正で、どこを見ても素材はよく整っている。
特に額の下、赤に黄の泥む底知れぬ光を宿して爛々と輝く赤みの瞳が物珍しかった。赤というよりは黄、黄というよりはオレンジ、揺れる色合いは命の内燃を覗き込むような気がする。太陽をそっくり詰め込んだみたいな輝きだ。
私はそれを綺麗だと思った。一方で、何か得体の知れない感じも拭えなかった。それが私に素気ない答えをさせた。
「飼うのは構いませんが、特別食事を用意するような気遣いはしませんよ。私たちの余りものでいいでしょう」
「いいんじゃない」
主もいつに変わらず恬淡として、そんなことはすべて任せるとばかり軽い返事ひとつで承諾した。
「では、そのようにしましょう」
こうして話はすぐにまとまった。
「それじゃあ、面倒よろしくね」
「かしこまりました」
言葉通りその日の夕飯は、自分たちの余りものをそのまま差し出した。
要領もわからずご飯もおかずもごちゃまぜの、餌と呼ぶにはあまりにお粗末な代物だったが、文句も言わずに食べた。不満らしい素振りもみせなかった。
朝昼晩と三食それでよかった。与えれば何でも食べるこの殊勝な雌猫は、食事をねだるときには必ず「にゃーん」と語尾に顎を上げるような独特の鳴き方をした。私たちの食事の前に腹が空いたときには、時間までずっとその声で鳴いていた。
腹の虫の代わりといったところだ。以来、私はいつでも耳の底にその声を聞いていた。
主は猫に名前をつけなかった。私もつけなかった。呼ぶことがなかったからだ。
なぜといって私は、とにかく彼女が気に入らなかった。
「ご飯あげた?」
「あげました」
「そ」
二週間が経っても、こういう短いやりとり以外、私たちの間で猫が話題に上ることはなかった。主は猫がそこにいれば満足だった。だから私も餌を与えるという契約さえ履行していれば仕事はそれで事足りた。
ただ三食の付き合いだった。私にしてみれば飼っているというつもりもないし、猫にしても飼われているというつもりはまるであるまい。一食でも給仕を欠かせば旅行者のようにふらりと外へ出ていってどこかで腹を満たしてくるだろう、それが二食三食とつづけばもう帰ってくることもなくなる。そして私はきっと叱られるのだ。
少なくとも私にとって、猫は単なる厄介者だった。生活の周辺をうろつく煩わしい存在でしかなかった。それが私たち二人の日常に我が物顔で割り込んでくるのが解せなかった。わざわざ招き入れた主の真意もわからない。そういう腑に落ちない不快な気分はまた到底、いずれ慣れるという性質のものにも思われなかった。
私は窓に腕をかけて、夕方降った俄雨で出来た水たまりに映る月を見ていた。それは薄暗い森の中で柔らかい水の光に包まれながらぼんやりと歪んでいた。色褪せて、出来そこないみたいに歪んでいた。何か自然の自虐的な姿をまざまざと見るようで、気分が悪かった。けれども、見上げれば見えるはずの正しい月を見ようとは思わなかった。
ゆらゆらと揺れる月の上を風が撫でていった。その行く先の踏み固められた土の道に、月明かりを透かして松の枝葉がまだら模様を敷いている。私はふとそこを颯々と駆けていく一匹の孤独な黒猫の姿を思い描いてみた。そうしてその背中に彼女の模様を与えてみると、それは即座に美しい一幅の絵になった。元来が野良猫だ、やはりそうあるべきなのだ。あいつもこの絵のように美しくどこかへ行ってしまえばいい。
「私はお前が嫌いなんだ」
私もさ――と彼女の眼はいつも答えているようだった。
たしかに向こうも私が好かないらしかった。これは幸いというべきだろう。片思いなら焦れることもあるだろうが、お互い好かないとなれば決裂の機会はいくらでもある。それを世話しつづける羽目になるのは、ひとえに使われる身の境遇だ。
主の興味が尽き次第、野へ放ってやろう――しかし時々廊下で擦れ違うとき、ちょうどそんな考えを抱いていると、彼女は、動物に特有の凄さを湛えたその橙色の瞳でじっとこちらを見つめたまま、しばらく足を止めていた。怖ろしかった。思惑も魂胆もいっときに乾いてしまった。目の前のふたつの橙が暗闇から呼び寄せた無数の瞳に射竦められているような気がして、空恐しさに身の引き締まる思いがした。それらに向かって追い出してやると叫ぶ意気はとてもなかった。
歪んだ月に誘発された邪な考えは、こうして得体の知れぬ太陽に瞬く間に蒸発させられてしまうのが常であった。
湖へつながる山道を半里ほど行くと左手に小高い丘陵がある。木立の少ない草原で一帯に見晴らしがいい。そこで猫はよく子供たちと遊んでいた。わざわざ遊びに来ているとも思われないから、単に彼女の散歩道と子供たちの遊び場の、そこが交差点なのだろう。
この日は食糧を買い出す街への道のりで、かん高い声が聞こえてきたところを仰いで見ると、泥だらけの服の見知った子供たちに取り囲まれて、黒猫は雲を背景にくっきりと輪郭を目立たせ、二本の尾を悠々と曳いていた。そうして遊ばれているのか遊ばせているのか、ともかく一緒になってあちこちに動いていた。
「こんにちは!」
子供たちは私に気づくと手を振った。手を振り返すと、満足気に遊戯にもどった。もちろん私はちゃんと人に化けた姿をしていた。猫は一度もこちらを見なかった。
「クロ! おいで、こっちだよ」
「ちがう、ちがう、ちがうってば、クロ!」
子供たちの口々に呼ぶこのクロと言う名が彼女の外での通り名らしい。
外見に即した名前ながら、つくづく似合わない名だと私は思った。あまりに外見に即しすぎているところが無機的で気味が悪かった。黒い猫など他にいくらでもいそうなものだ。クロと呼ばれる猫以外も山といるだろう。
私はその名を明らかに失敗だと思った。少なくとも彼女に合った名前ではないと思った。
「クロ! クロ!」
それでも子供たちは楽しげだった。ほとんど喚くような声を張り上げて、追いまわしたり追いまわされたりしていた。猫もまんざらではない様子で駆けていた。そういう忙しない影絵を通り過ぎ様に見ていると、あまりに屈託のない自然な姿に思われて、どうしてあの生き物がうらぶれた我が家などに住みついているのか、今更ながらわからなくなった。
――毎日、そうしてふらついていればいいじゃないか。
しかし猫は夕方になると、必ず汚れた体で帰ってくるのだった。
ところがある日、猫は朝から姿をくらまして、そのまま午後の六時を過ぎても帰って来なかった。にゃーんというとぼけた腹の音を、とうとう終日聞かなかった。
捜しに出された私は、いい加減にひっかけてきた雨合羽の前をあわせながら、灌木の茂みを縫って走っていた。道に落ちた匂いを頼りに、彼女の散歩道を正確に辿っていった。どこかで微かに聞こえるかもしれない鳴き声も逃さないよう、耳を覆う帽子は出るとき棚に置いてきた。
雨だけが怖かった。まだ降りはじめてはいなかったが、西の尾根のあたりではもう雷が鳴りはじめていた。定期的に山を襲う夕方の驟雨が近くまで迫ってきていた。
「昼もいなかったじゃない。悪いけれど捜しに行ってちょうだい」
そう主にせきたてられたとき、私は出来ることなら行きたくなかった。いなくなったならいなくなったで結構なことだと思った。硝子窓の向こうは夜のように暗く、雲行きはいかにも怪しかった。
「けれど、もうだいぶ暗くなりました」
「早くしないと、もっと暗くなるわ」
主は取り合わなかった。そうして私に背を向ける格好で横向きに寝転がったまま、ただせかすように手をひらひらとやった。
「しかしいなくなったものをわざわざ連れ戻すのもどうでしょうか」
と幾分気の立っていた私はそのとき、珍しく反抗らしいことを言った。
「もともとが拾ってきた野良猫じゃありませんか。野良猫は飄々と棲み家を変えるものです。突然いなくなっても何も不思議じゃありません。構わないじゃないですか。それともあの猫は、そんなにこの家に、必要ですか」
主は黙って聞いていた。黙ってどこかを見ているようにも見えた。そうしてあくびをひとつ挟むと、上半身を起こして肘に身を持たせ、
「でも、家族でしょう」と言った。
私はひとこともなかった。その言葉には意味にも語気にも並々ならぬ意思を挫く力があった。頭の真ん中を何か熱いものが通り抜けていくような気がした。
――私はあれを家族だと思ったことは、一度もない。
「足元に気をつけてね」
「……行ってきます」
あの丘まで来た。ちょうどその頂上まで来たとき、近くで鳴き声を聞いた。見ると左手の黍畑を抜けた先に、猫はいた。
猫は視界を左から右へ切っていくように、畑のまわりの小高い土道を歩いていた。その傍にもう一匹、ひとまわり体躯の大きい黒猫が寄り添っていた。そうして二匹揃って奥の茂みへ潜っていくのを、私は慌てて追いかけた。
黒々とした木立の影を避けて進むと、ひやりと冷たさの籠めた暗がりに橙色の瞳が光っていた。がさがさと草の音がした。もう一匹の猫が去って行く音だった。
「帰ろう」
雨の匂いが強くなってきていた。私はうずくまる彼女に手を伸べた。しかし何も抱き上げるわけじゃないと思い直して、反射的にその手を引っ込めた。
ちょうどそのとき、背後で雷が威嚇的に閃いた。
暗がりで見えなかった茂みの向こうに、いくつかの小さな影が見えた。
「え……?」
そこは山遊びの帰り道に面した浅い茂みだった。雷がまた背後で閃いた。そうして目の前に立ち尽くす子供たちの畏怖に塗り込められた表情を、今度はくっきりと精巧に照らし出した。
「ひっ――!」
余韻を残した明るさの中に、私の露わな獣耳も九本の尾も、不気味なシルエットとなって地面に落ちていた。しまった、と思った。子供たちはもう悲鳴を上げていた。私は猫をひったくるように捕えると、全力で木立の奥に身を引いた。
「うわああ!」「お化けだ!」「妖怪だあ!」
小雨が降りだした。かすれていく叫声を背中に、私はそのまま黍畑の中を突っ切って、まっすぐ家へと馳せ帰った。
それからも猫はたびたびいなくなった。しかしいなくなるたびに帰ってきた。
あるとき迎えに行こうとすると、ちょうど散歩道をこちらへ帰ってくるところに出くわした。疲れた様子ながら、迷いのない歩みは明らかに我が家を棲み家と見なした足取りだった。他のところには戻らないさ。そうはっきり伝えるような堂々たる姿勢だった。
そういうことが何度かあった。やがて私は、彼女を捜しにいかなくても済むようになった。
失踪の翌日、私は猫又についてもっと詳しく調べようと町の図書館へ出かけた。
平日の昼らしく閑散とした読書コーナーの席を一人で陣取って、それらしい本を六冊ほど、比較できるよう一面に並べてめくっていく。
――猫又。
飼い猫が年月を経て化けたとする変化説から、猫又の子は猫又であるという種族説、死んだ猫の怨霊が形作る妖怪であるとする幽霊説まで様々ある。なかなか統一された資料は見当たらない。
共通しているのは猫の妖怪ということくらいである。しかし猫と猫又はまるで違う生き物だ。猫又というやつはその生態も生活も、猫ほどよくわかってはいない。化け猫とどう違うのかもわからない。人語を解するのかどうかさえわからない。しかし発しないのに解するとすれば、これほど不気味な存在もあるまいと思うのだった。
「やあ、お久しぶりにお見かけしますね。何かお調べですか」
調べはじめて間もなく、顔見知りの司書の男がやってきた。言うまでもなく今日も私は人に化けている。化けた私と顔見知りなのだ。
「これより詳しい百科事典はあるかな。あるいは妖怪事典のようなものでもいい。猫又について調べたいんだ」
「化け猫ですか」
「猫又だよ。それとも、同じものなのかい」
「わかりませんが、僕は似たようなものだと思っていました。猫がどうかして化けて出たのが猫又だと」
「それじゃあ、幽霊説だな」
「どうでしょう」
「しかし考えてみれば妙な話だ。猫又は生きてるじゃないか」
「だからまあ、よくわからない存在です」
と司書は元気の失せた声を出した。この手の仕事に携わる者の常に洩れず、知らないことの話をするのは不得手らしかった。そうして話題の矛先を変えるように、
「しかしそうだ、幽霊といえば、昨夜このあたりにも幽霊が出たのをご存じですか」と言った。「山遊びから帰る途中の子供たちが偶然出くわしたそうで。大人たちのあいだでもちょっとした騒ぎになっています」
聞けばそれは私であった。金色の尾を何本も持った化物狐の幽霊が突如林に現れて、通りすがりの黒猫を捕まえるとそのまま黄泉に連れ去ったのだそうだ。命からがら逃げ帰ったもう一匹の雄猫は、今は無事人家に匿われているらしい。
なるほどもっともらしい幽霊譚に仕上がっていると思った。黄泉を我が家と読み代えれば脚色もさほどない。妖狐が出たで済む話じゃないかとも思ったが、なんとなく幽霊にされた理由にもあたりがついていた。
「なんでも猫を抱いたまま、まるであの世へ連れ去るかのように宙へ浮いて、そのまま煙のように姿を消してしまったとか。いよいよ本物ですね」
目撃していたのは子供たちだった。いずれ尾鰭がついたものにちがいない。
「本物にせよ偽物にせよ物騒な話だ。しかしその幽霊も何がしたかったのやら」
「連れて行ったという猫に、きっとよほどの未練があったんですね」
こう言われると、全てが誤解とはいえ幽霊の正体たる我が身について、あてこすりを言われているようで嫌な気がした。冗談じゃない、未練なんかこれっぽっちもなかった。未練のあったのは主で、私じゃない。
「さあ、案外その猫が喰いたかっただけかもしれないぞ」
と私は仕返しに意地の悪いことを言った。
「そういうことはないでしょう」
彼は意外にも真面目らしく答えた。「ふむ」と唸って見せると、
「やはり未練だと思います」
そう言って彼は本の一冊を手に取り、手癖のように表紙を撫でながら、真摯な様子で語りはじめた。
「僕は幽霊というやつは、そう好き勝手に出てこられるものでもないと思っているのです。つまり彼らもまた、自由な存在ではないということです。だってそうでしょう、好き勝手に化けて出られるとしたら、この世は幽霊だらけになってしまう。食べたい猫がいるくらいで狐の幽霊が出るというなら、これはもう町も山も狐だらけになってしまいます。しかし現実はそうはなっていない。とすればやはり彼らにも限られた特別な時間があるのでしょう。それは囚人の面会にも似た、僕らには想像もつかないほど大切な時間なのでしょう。幽霊というのも、よほど伝えたいことのある人を泣く泣く選んで出なければならないような、いっそ切ない存在なのかもしれません。僕はたまにそう考えると、自分は誰のところへ行こうかと悩むことがあります。また自分のところへ来てくれない故人はいったい誰のところへ行っただろうと……いえ、やめましょう。とにかく、幽霊にも限られた時間があることは、私には疑い得ません」
本を返して出ると、空は降りたそうに曇っていた。
私の金色は竹の箒に馴染んで目立たないが、黒は僅かでも眼につくのである。汚れた様子で纏わりついているそれが、払った穂先に少しでも残るといつも嫌気が差した。
畳んだばかりの洗濯物を平気で踏み越えていく。ときどき後ろ足をぶつけて崩していくと、言いようもなく苛々する。縫い物のときついうとうとして、ふと眼を覚ますと私のまわりをうろうろしている。そうしてどこでひっかけたのか、縫い糸を台無しにしている。夕食の時間が近くなれば、にゃーん、にゃーんと哀れを誘う鳴き声で無暗やたらに騒ぎ出す……。
初めのうち意識の隅に蠢く何か黒いものに過ぎなかった猫は、一年の月日をともに過ごすうち次第にその輪郭を顕して、私の日々にしつこく絡んできた。それはいつの間にか拭おうとしても拭うことのできない強固な桎梏になっていた。私は彼女の姿を見つけるたびに、ちょうど囚人が冷たい足枷に目を落としたときのように、滑り落ちていくような暗い気持ちに捉われたのだった。
外の空気を容れようとして雨戸を開けると、湿った夜気にひやひや言う鳥の声が透っていった。それが互いに呼びかえして、不気味な反響となって湿度のように大気に残っていた。そうして少しずつ沈んで土に沁みていくようだった。どこも暗かった。時々虫の青白い光が地面とすれすれにぱっと光って、明滅しながら木の間に消えた。消えた向こうから斧の音が聞こえてきた。確かな幹に喰い込む、確かな音だった。遠い音響なのに、耳が痛い。
にゃあ、とどこかで猫が鳴く。あれは眠いときの声だ。
これも確かな音だった。私は、私のこの暗澹とした気持ちを引っ張っているのは、彼女の
確かさに違いないと思った。それほど猫はしっかりとした確固たる存在に感じられた。猫は実体だった。それに照らしてみれば、私という定かな性格なんてどこにもなかった。水面に映る歪んだ月と変わりない、風が吹けば形も変わり、水が引けば消えてしまう儚い虚像に過ぎなかった。私は、私があまりにも頼りない存在に思えてきた。
それは自己嫌悪という名の自分への甘えだと思った。自己嫌悪は自分の存在を少しだけ確かにしてくれる。それを求めているのだ。しかし私は誰かに甘えたことがなかった。自分にも上手く甘えられない道理だった。その中途半端な自己嫌悪が私を苛立たせるのだ。
限りない事物の可塑性の中に、身も心も任せきってみたい。世界にもっと弾力が欲しい。そのためには何かひとつでも、心を傾けられる確かな存在を自分の外に持つ必要がある。
私はふと、いっそあの猫を好いてみたらどうなるだろうという、途方もない想像に駆られた。世の人たちがその飼い猫にするように、至れり尽くせりせずにはいられないほど彼女を想い、考え、出来る限りの愛情を注いでやったらどうなるだろう。そうすることで自分にも手際よく甘えられるようになるだろうか。
試しにでもいい。あの猫に、ほんの少しの愛着を感じてみたいと思った。
しかしその仕方がわからなかった。やはりそれは叶わぬ夢でしかなかった。どうしようもなく、私は彼女が嫌いだった。
そうして煩悶の中に初夏を迎えたある日、
「湖にでも行ってきたら」
と主は言った。
「二人でいっしょに」
この唐突な提案を、私は断ることができなかった。その頃にはもうすっかり自分を失っていた私は、「そうですね」とただ上の空に答えたのだった。
湖という響きもいい。今の私に家は狭かった。森もまた窮屈だった。思考が広いところを求めていた。それに、ここ最近の淀んだ空気を変えるきっかけも欲しかった。
私はただ体を引きずるように、癒しを求めて湖水に発った。猫は黙ってついてきた。かんかんといい陽に夏草が蒸れていた。風のない日だった。
着いてからは別行動にした。
そう告げなくても猫は勝手にどこかへ行ってしまった。私は適当な場所に座って水を見ていた。水際は薄い波に細かい泡が湧いていた。水面は思うままに光を跳ねて、ほとんど真っ白に見えた。
湖畔には弱い風が吹いていた。風下の北の方には何艘か白い船が動くともなく浮かんでいる。白い船体は白い波に紛れて、輪郭以外ほとんど光の中に溶けている。ぼんやりしていると景色はただ空の青と森の緑と湖の白と、横並びになった三色の帯のように見えた。そこに注ぐ金色の陽光と、それの落とす濃い真黒な影が、此処彼処に美しいコントラストを作っていた。
対岸にはぽつりぽつりと人影が見える。遠い水辺を左右にちらちら揺れている。どれも同じように見えた。どれも同じように見えるのは、私が区別をしないからだ――あの猫だって、今あの点描のなかに放り込めば、私にはどれが彼女かわからない。
そういうことだろうか。
湖を渡る風に覚まされて、私は少しだけ虚心になることが出来ていた。そうして、何かひとつの答えを見つけた気がした。
彼女に、名前をつけてやろうと思った。
一年越しで先延ばしにしてきたこの決断に、私はそれほど重要な意味を感じはしなかった。ただなんとなく私は私の思う名で呼んでみたくなったのだった。そうすることでほんの少しだけ先に進めるかもしれないという漠然とした予感があった。またそれは主の目論見でもあっただろうと思った。そうでなければ面倒な家事を一日とはいえ引き受けてまで、私を猫と一緒に放りだす理由はあまりない。
彼女に名前をつけてやろう。もちろんクロという通り名などは問題にならない。あれはやはりあだ名に過ぎぬと私は勝手に決め込んだ。黒猫のクロ。私には苦笑しか誘わない。
彼女に類ないのはなんといってもあの瞳だ。太陽を硝子で包んだような湿った大粒の、あの橙の輝き、あれは決して他の猫にはないものだ。それにこそ、ちなんだ名がいい。
一方で人がつける猫の名前というやつは、タマだブチだクロだミケだと、大体音節がふたつ限りのものが多い。呼びやすいからだ。出来ることならその知恵には倣いたかった。そうすると、どんな音をあてるのがいいだろう。
ひとつ、思いあたる音があった。舌に乗せてみると、なかなか可愛らしい音だった。語尾をきゅっと絞るのが、彼女のあの独特なお腹の音みたいでちょうどいい。これだ、と思った。私は他を考えるまでもなく、すぐにそれに決めた。
――早く帰って来い。
名をつけたからといって、殊更呼ぶ機会があるとも思わない。嫌いだったものが突然好きになるというような図々しい期待も起こらない。それでも、名前を呼んだら少しは愛着らしいものが湧くだろうか。三食しか縁の無かった付き合いは一段まともになるだろうか。昼の廊下で行き会うときにも、黙ってないで何かしゃべってくれるかい。
口が渇いてきた。湖水に口を漱ぐと冷たくて気持ちがよかった。浅く沈めた手のひらをぱっと前に投げだすと、水滴がきらきら光って水に落ちた。綺麗だった。
私はもといた草地に寝転がって、湖とは反対側の湖畔林を見ていた。透き間の少ない原生林の茂みはこことは対照的に薄暗かった。そうして私は、きっと猫はその奥から帰ってくるだろうと訳もなく思っていた。
飽きず枝の交叉を見ていた。視界は西日に赤く染まって波音のよく響く夕方になった。猫は帰ってこなかった。
ねぐらを求めて鳴く鳥のひときわ高い声に驚いて、はっとした。あたりを見直すと、もうどこにも人影は見当たらなかった。皆引き上げていた。
湖の向こうに、沈みゆく太陽が見える。立派な夕陽だった。浮世絵に見る煙草の煙のような、細長く大仰に曲がった雲を背景に、堂々として夕暮れの主役を譲らなかった。見入れば見入るほどあたりの景色は急速に掠れていった。世界でいちばん確かな実体。あの橙の瞳を覗き込んだときと同じ心地がする。
――早く帰って来い。
もう一時間待った。猫は帰って来なかった。いよいよまた例の失踪癖に違いなかった。
何もこんなときにと思いながら、私は仕方なく一足先に家へ帰ることにした。主も夕飯を待っている。いつまでもここでくすぶっているわけにもいかなかった。それに、放っておけばまた宵入り前にでもひょっこり帰ってくるだろうと思った。
しかし今度は本当に、猫は帰ってこなかった。
「もういいでしょう」
夜になっても戸を開け放したままで、今日もじっと外を見ている主の背中に、私は声をかけた。
「あれだけ捜しても、どこにもいませんでした」
言って、少し胸がつかえる。あれだけと胸を張って言えるほど丹念に探したか。もしかすると私は彼女を無意識のうちに看過したかもしれない。しかし近くの山や町は歩き尽くした。見たという話も聞かなかった。
「もう、帰ってきません」
「そうね」
主は諦めたように言った。
「あなたも、せっかく気に入っていたのにね」
私は何も言えなかった。そんなことはありませんと喰ってかかるのは、今はあまりにも馬鹿げたことだった。
「戸、もう閉めますよ」
それから一年が経った。薄い月日だった。ただ四季がめぐって、春が過ぎた。それだけでまた夏が来たと知れた。
私はもうほとんど猫のことを忘れていた。
ある日、風のない炎天下を丘までぶらぶらやってきたとき、頂上から湖の方角へ下る道の左手に、斜めに差し込む日当りでぼうっと明るい木陰の一隅に墓を見た。
墓標はしゃんとした十字架で、いちばん目を引く巨木の下に白木の板で拵えてあった。交叉の部分には黒いリボンが結んであった。それがひらひらと風に揺られていた。途端に私は、それが目の前でぱっと粉々に舞い上がって、そのままばらばらと落ちて消えていく錯覚を見た。まったく不意に彼女のことを思い出したのだった。
そういえばこの道は彼女の散歩道だった。
じっと墓標を見ていると、見ている間だけきりきりと眼の玉を締め付けられるような気がした。ひょっとしたらそこには彼女の亡骸が埋まっているのではないかという馬鹿げた予感が脳裏を掠めた。取り合う必要もないほど馬鹿らしい想像に違いなかった。
そうだ、あまりにも馬鹿らしい。しかしそう思い描いた心の動きに嘘はなかった。そうして事実の側が馬鹿らしいことということも、現実にはままある……。
少し足を伸ばして湖まで歩いた。
そこもいつに変わらぬ風景だった。小さな波に覆われた湖はただ巨大な白い水盤のように広がって、生き物の気配も点々と、ただ涼しさだけが巻いている。青緑白と三色の具合さえちっとも変り映えがしない。何ひとつ変わらない……しかしこの固定した風景を眺めて変わらぬ変わらぬと思うとき、私は知らず一年前の景色を比較に想い描いていることに気がついた。あれから何度か来たはずの湖畔の景色は全て綺麗に忘れていた。
ふと背中の茂みを見た。枝の交錯が奥を覗くためのアーチのように空間を切っていた。その下を何かがくぐってやってくると人に思わせるような形をして、暗がりの向こうに私の視線を吸いこんでいった。それは去年の夏、湖畔に座って猫を待ちながら眺めていた光景によく似ていた。
――よく似ていた? 違う、同じだ。まったく同じだった。夕暮れに紅く染まった姿さえぴたりとそこに重なってくるほど、それはあのときと同じ眺めだった。あれから一年経った。しかし時間は正しく繋がって、透き間は無かった。疑いようもなく、今この瞬間は、あのときの続きに違いなかった。
その思いを裏打ちするように、正面からにゃーんと声がした。がさりと枝の交叉を抜けて来たのは、やはり彼女だった。
――遅かったじゃないか。
しかしまだ日は明るい。太陽は眩しいほどの明るさで三時の角度に差していた。もし今日があの日なら、私はそう待たされてはいなかった。そうだ、そこそこ早く帰ってきたじゃないか。
「なあ、要らないと言うかもしれないが」
私はちょうど彼女を待っていた姿勢のままに、言った。猫は身構えるように私の前に立って、立ち尽くしていた。
「お前に、名前をやろうと思うんだ」
にゃーんと一声、また耳に届いた。猫はくるりと私に背を向けた。そうして、たっと林の中へ駆け戻っていった。
「待ってくれ……!」
私はすぐ後を追った。
機敏な足取りは初めだけで、徐々に悠長な歩みになっていった。ほっとした、けれども追いつこうとするとまた逃げられてしまう気がして、私は彼女の後ろに一定の距離を保ちながら、それでも見失ってしまわないようしっかり後を追った。揺れる二本の黒い尻尾に目を釘付けにして、ゆっくりと茂みを分けて歩いた。
にゃーん、にゃーんと鳴いていた。お腹が空いているのだ。食べ物を何も持ってこなかったことをひどく後悔した。
足元と頭上とを交互に風が吹き抜ける。林の中は湿っぽく、蒸し暑さも涼しさもないまぜに、ただ暗く、音もなく、青かった。
とうとう私は、お前を好きになれなかった。
今だってそうだ。今だって私はこのまま足を止めて、お前を見送ったって構わないと思ってる。そうしないのはお前がどこまでも立ち止まらないからだ。立ち止まってくれれば、私はお前に名前をやって、それで永久に去ってしまってもいい。
私はお前を好きになれなかった。
仕方ないことだった。けれど私はお前に愛情こそ与えなかったが、いつでも三食という糧は与えてやったじゃないか。生きていく手伝いは惜しまずしてやった。空腹で緩んだお前の背中のネジは、いつだって私が回してやっていたんだ。私たちの付き合いは初めからそれで十分だった。それ以上のことは必要なかったはずだ。
だから、どうか勘弁してほしい。
わからなかったんだ。従順な式でありさえすればよかった私にはわからなかった。お前に愛着を感じるというたったそれだけのことが、どうしても出来なかった。知らなかったんだ。
愛着は区別だということを、あのときの私は知らなかった。そのための区別は自分で作りださなければ意味がないということだって、全然知らなかった。
主はお前に名前をつけなかった。私もつけなかった。呼ぶことがなかったからだ。けれど呼ぶことがなくたって、私はお前に名前をつけるべきだったんだ。私がつけるべきだったんだ。そうして顔を合わせるたびにその名を呼んでやれば、私はきっと、もう少しだけお前が嫌いじゃなかったかもしれない。
主はずっと待っていた。私がいつかお前に近づこうとして、たった一言お前を名前で呼び掛けるその日を待っていた。けれどもまさにその日、お前はいなくなってしまった。これも巡り合わせだろうか。それが私たちの運命なのか。せっかく、お前にぴったりの名前があるというのに?
しかし、全てはもう手遅れだ――猫に足音はなかった。小枝を踏む私の慎重な足音だけが、しんしんと青い空間にこだましている――全ては手遅れだった。
悪かったのは私だ。お前に責任はない。私は、お前がもう少し私に懐いてくれればなんて、一度だって思ったことはない。お前が私の襟元に顔を埋めにやって来たって、私はちっとも嬉しくなんかなかっただろう。
もっとも、そんなことがあるはずもなかった。お前は私が嫌いだった。
お前は私が嫌いだった。
けれど、わかってる。わかってるさ、お前も私に愛情こそくれなかったが、いつでも仕事という甲斐は与えてくれた。生きている実感をくれた。生活がつらいものだということさえ忘れかけて、縫い物仕事にうとうとしていたとき、私の背中のネジをまわしていたのはお前の短い手だったんだろう? 私がお前にそうしたように、確かにお前もお前のやり方で私に尽くしてくれていた。
不器用だった。泣きたくなるくらい不器用だった。意地を張っても仕方ないところへ意地を持ち込んだ罰だったんだ。そう思うしかない運命だ。生きてるつもりで生きてくために、身体と心とお互いに支え合っていながら、私はお前が嫌いだった、お前も私が嫌いだった……!
――とん、と何かが足に触れた。
猫はようやく立ち止った。そうして私が名を呼ぶ前に、にゃーぁ、と語尾を下に引くような鳴き方で鳴いた。今までに一度も聞いたことのない抑揚だった。私はその意味がわからなかった。そうして戸惑った一瞬のうちに、猫は姿を消してしまった。
突然ひとり取り残された絶望感に耳を澄ますと、にゃーん、にゃーんと餓えの声は続いていた。下からだった。足元へ視線を落とすと、草の間から小さな橙色の瞳がこちらを見上げて、にゃーんとまたひとつ、お腹を空かせていた。
不覚にも涙がこぼれた。小さな黒猫。背中に見慣れぬ模様はあっても、その小さな顔はあまりにも彼女にそっくりだった。
胸が震える。猫又の子は猫又だった。尾が二本、黒は黒のままに、同じ声で鳴いて、そうして受け継いだのが、その瞳で、本当によかった……!
「なあ……帰って一緒においしいご飯を食べよう、なあ、
橙……!」
私は母親そっくりのその猫に迷うことなくそう名付けると、両手に抱いて抱きしめて、嬉しさに泣きながら家まで駆けて帰った。贈る前に逝ったんだ、名前はこいつにあげてもいいだろう。そう何度も心の中で彼女に許しを乞いながら、顔をぐちゃぐちゃにして夕暮れの赤い黍畑を一心に走りつづけた。
橙はよく私に懐いた。私も精一杯可愛がった。じきに主の許可を得て、私の式にした。
「橙。おいで、橙!」
私はきっと必要以上にその名を呼んだ。何度呼んでも込めた愛情の半分は、母親のところへ流れていってしまうような気がして――だから、いつでも二人分の愛情を傾けようと思った。二人分どころか、三人分だって四人分だって、それ以上だって構わない。橙に心を預けてはじめて、私の世界は本物になるのだから。惜しむ心はどこにもない。
「そろそろご飯にしましょう、藍」
そうして主の私を呼ぶ声もまた、今までにないほど生き生きと輝いているのを感じた。たった一瞬の声色にこんなにも想いのこもっていることに、これまで少しも気づかなかった自分が恥ずかしかった。
「はい、紫様」
夜。橙を布団に抱きながら、私は最後にひとつだけ残された気がかりについて考えていた。彼女の最後の言葉が、とうとうわからずじまいだったことだ。一年生活を共にして、ついに一度も聞かなかった声だった。橙を託しにやってきたなら、よろしく頼むというようなものだっただろうか。それとも応えた私にありがとうと、そう言っていたのだろうか。
定かなことはわからないまま、記憶の薄れていくに任せて日々は過ぎた。
ある日、橙が猫の姿で遊んでいるところに居合わせた。数匹の仲間を相手に何かにらめっこのような遊びをしているらしかった。そうして一試合終わったとき、にゃーぁと橙の勝ち誇って上げた声が、ずっと気にかけていたあの声にそっくりで、はっとした。
鳴き声が聞こえる。声の質から抑揚の細かな陰影まで、あのときのあのままで。
そうしてようやくはっきりとわかったのだった。やはりあれはありがとうなんて、似合わない代物じゃなかった。あのとき彼女はきっと、こんなようなことを言っていたんだろう。
「それにしても今更ここに来て私の姿を見るなんて、内心は私に会いたかったんじゃないか。意地の張り合いは、どうやら私の勝ちだったね」
けれど、なけなしの時間で私のところへ来たんだ。先に折れたのはやっぱり、お前の方だったんじゃないのか、クロ?
(2009年07月19日 「東方創想話 作品集その81」にて公開)
Zip版あとがき
幻想郷の幽霊は捕まえて涼んだりすることもあるそうですが、ひとくちに幽霊と言ってもきっとさまざま、その中には真摯な幽霊がいてもいいかもしれない。そう思ってかなり前からこんなテーマで書こうと思っていたものを、藍様に託して書いてみました。